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嵐を待つ 平安な部屋 [平穏]

僕は 疲れているのだろうか 

それにしても なにに 

疲れてしまって いるのだろうか 

以前は 書くことがない、

というのは 自分の反発心に 

動機を点火させるためで 

あったようだが 

今は 

書くことにも  疲れている 

つい数日前に  四日間 

連チャンで ブログを書いた 

それが パタッと 終わり 

今度は 四日間  なにも 

書かなかった 

すると 今日あたりは 

何も考えずに 書いている頃 

なのだが 

音楽も  身に 染みないし 

書ける気分が  ない 

表現しようという 動機が 

かすかにでも 感じられない 


台風 という嵐に 

つき合うというのは 

こういうことを 言うのだろうか 

これでいいのだろうか という 

言葉が 口を つく 

それは これでいいのだと 

自分に 語る言葉でも 

あるようだ 

雨が 強く 降る 

風が やや 渦巻くよう 

そこに  なにも 感じないのだ 

まるで 無関心な 自分が 

ここぞとばかりに?  いる 

なにか 落ち着かないが 

落ち着きたいと思うほどは 

不安が あるのでもないし 

なにかを  忘れているといった

風で あるだけで 

それを 思い出してみたい 

とは  思わない 


笑いたい とか  楽しみたい 

というのは  なにかに 

依存したいという ことで 

いいのだろうか 

そう感じる 

なにも 依存したくないし 

それが 退屈を  引き起こして 

いると  知っていても 

恐れるほどの 退屈ではないし 

静かな音楽でも 聴いていれば 

忘れられる その程度だし 

ただ  なにもかも  飽きた 

という気は  する 

愛も  しあわせも  笑うのも

楽しむのも  それほど 

魅力な事か という 

寂しさや 郷愁が  あれば 

空気に 色合いが 生まれる 

というものだが 

都合よく  勝手に生まれる 

ものでもない 

だから  せめて 

音楽に  合わせよう 

その音の波に リズムを 

合わせよう 

この経験が  疑似体験だと 

よくわかるのだが 

そう感じたことは ないだろうか 

音楽が 気分を つくってくれるから 

僕らも  それに 合わせられるのだ 

慰めに  また勇気が欲しい時に 

いろいろな場面で  僕らは 

好きな音を  選択する 


知らず  知らずに 

また しあわせを  選んで 

そういう体に 反応して 

僕らは  心を 揺らしている 

気持ち良さに 

僕らは 楽に  負けてしまう 

そういう時 

僕らは  負けるのが  肝心だ 

体が  それを 必要として 

心に ねだっているからだ 


ここまで 来た と思う時 

ほとんど  どこまでか 

わかっていない 

遠くまで 歩いてきたと 

自分を  郷愁に 

誘いたいからだ 

体から 肩から 力が 

抜け 

心は ほっとしようとする 

心のなかでは 

水脈が 二手に  分かれ 

自分と 知性という 

二重の精神が 用心深く 

辺りを  見回している 

感情は  そのまま 気にせず 

流れに 身を まかせる 


なんだ 

あろうことか  いつのまにか 

やはり  書いているではないか 

なにかのために  書くのではない 

ただ  この世にあることや 

ものを 見て  聴く 

それを 音楽ではなく 

言葉で  転がして ゆく 

自分の 気の まにまに 

それが 現れたなら 

それが しぼんで 

消えゆくまで 

ついて 行く  



他に  なにもしていない 

それが 気持ち よい 


すると 僕の胸で 

育とうとする ものがある 

それは いつかの夜の夢で  

逢ったことが あるような 

暖かい気持ちに 

満たされる 

胸に 咲く 花なのだろう 

パソコンから  スマホへ

流れ出て 

人の 胸も 満たした 

ことが  あるのかもしれない 

それは スクールという 

英語名を  思い出させる 

過去の  一部なのかも 

しれない 


それでも  それは 

僕の過去に  形のあった 

ものではなく 

僕自身の  イメージを 

生きている 

なにかを 具体的に 

想像するのではなく 

確かに 僕の 胸に 

やって来た 

その記憶の  片鱗のような 

ありがとう と 

言えるもの 

さまざまな  とても細かい 

些細な  ものたち 

花びらが 落ちるような 

紅葉の セーターを 着るような 

彼らが  歓迎してくれたこと 

ありがとう と 

感謝するもの 


なぜ 僕は 

書くのか 

この 書くというお喋りが 

どうして 

楽しいのか 

しあわせ なのか 

新しいことを しよう 

今なら 

できなかったことも 

それなりに 進められそうな 

気がする 
   (あなたが病気でないなら)

それが  慰めでも いい 

依存する気持ちでも いい 

この世の  形に 

手を  つけて いこう 

なぜなら 

それこそが 

未来だから 

今 

この空気を  歩いてみる 

この  あたたかさに 

包まれてみる 

なにも  怖くないはずだ 

それが  わかる 

僕には  それが  できる 



:::
僕は相模川の河原で黄泉に出くわした。

古事記で書かれた黄泉の国だが、あれは

そうだったのだろう。

「今」に出くわすのはもっと難しいので

はないか。それは過去も未来も同じ感覚

のうちに違うものとして感じることだ。

そのためにはまず、時間が存在しないと

いう感覚を獲得しなくてはならないから。

因果を見て学んだことは世のまた、世界

の生々流転の様である。始めも終わりも

ないが、それらしい区切りはあるといえ

ばある。それは選択によるものだが、

どんなに理解しようとしても、その段階

ではない過渡期があって、それは比類

がないので同定できないのだ。

それは僕らがひとりでは理解するのに

完全な限界が暫時に生まれていて、

それは物ごとの移動のように、理解

される範囲へと押し出される。常に

その世代、時代では理解できない

部分が生みだされているのであって、

一人の人生ではこれをカバーできない。

それでどんな偉人も天才もその時代を

完遂する記録は書けない。

僕らは大いに参考にはするが、彼らの

その時代時代、世代世代には抜けが

存在していて、彼らもそれを歳を重ね

ながらカバーしながら、新しい理論を

構築せざるを得ないのだ。この引継ぎ

が他人によってうまく行くことは

奇跡的だが、ないのでもない。 

しかし、この数千年で因縁になって

しまうものも見受けられ、僕らの

東洋・西洋の殻を破らなければ、

それを見抜くのは並大抵ではない、

と最近思う。

        8.29-30
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