SSブログ

常識とオウムを鳴かす [宗教]

ブログはジャーナリズムの性格が

濃いジャンルなので、日記や記事

という体裁になるが、そのため

ほとんどのブログにはそのブログ

専用のテーマがある。

その常識のテーマという体裁を

無意識にだが、壊そうとしてきた

経緯があるのは、最近わかって

きた、と言うか、今考えて

わかった。

元々革新的なことを狙いにする

気質だから、これもその一環なの

だろう。

ものは物事の一部で、精神は心の

一部である。芸術でも絵はより精神

に傾いているものであり、彫刻は

物のほうに傾いているものである。

器を見て、買い、作り始めながら、

次第にものについて書くのだろう

と、なんとなく考えていたが、

一般に物は表現ではない。彫刻に

しても、表現するよりもその造形

というものの存在感に語らせよう

とするものだ。

精神は語るが、ものは沈黙する。

それが理法にも適っている。

精神は思考するもの・考えるもの

であり、それは数字である言葉

(単語)と数式である文章を組み

立てて語ろうとする、表現意志が

ある。それでそれを評論するとい

う経緯も成立する。

評論の第一人者の小林秀雄も、

絵や音楽の評論での評価は高いが、

一時骨董を売り買いしていた頃の

その当時の陶器や磁器の評論は

見たことがない。土器には相当、

嵌ったようで、そこからぽっと

夢が覚めたように抜け出た時は、

磁器の艶のある白さが美しいのを

忘れていたのは尋常ではなかった、

と当時を反省している。

それくらい集中して土の景色を

見続けて面白かった、ということ

だが、その小林でも器のものに

ついての直接な評論は書いていない。

自然に器の沈黙に寄り添っている

のだろう。

僕も器が自分を主張して、その存在

を現した時は痺れてしまったが、

ものの原点とかいう考えが、まったく

それから出てくることはなかった。

小林もそうだったのだろう、とは

最近気がついてみると、ということ

でそれならそれで納得がいくという

次第である。

それはちょっとした園芸で庭に

新しい花が咲いた時に、美しいと

直感的に感じるのと同じである。

それは感じるのであって、考えて

そう思うのではない。言葉の世界

ではないのだ。言葉はどう思ったか

を伝える世界であって、直接伝え

られないから、「美しい」という

言葉で囲う、または言い繕う、それ

は言葉で装飾することだ。そこで

沈黙している器に私が思う美しさ

を花屋のように花を色紙で包んで

やることだ。だから、人がそれぞれ

思う数だけ、それを包んでやるので

あり、「美しさ」そのものは存在

しない。小林の言うとおりだ、

「美しい花はあるが、花の美しさ

というものはないのだ。」

まこと、名言だとまた納得する。



それを敷衍(詳細)すると、人の

性格や性質もまた、いいとか悪い

とかわかっているような気がするが、

その内容にまで立ち入ってみると、

様々な性格の要因のようなものが

あり、またその受け止め方で好き

嫌いに分かれることもあり、性格

や性質に云々するのは立ち入り禁止

区域である気がする。微妙に意見が

割れる要素や範囲が多い気がする。


だから、あの人はいい人だとよく言わ

れることがあるが、その程度で十分

だという僕らの常識があるのだろう。

深追いしても始まらないというこの

人々の生活上での長い間に培われた

直感の積み重ねはごく自然に納まっ

たというものなのだろう。

僕らは常識をわかりやすいものと

単に考えるが、その内容を見識す

ればするほどわからないものの

集まったかたまりに見えて来る。

すると、こうも言えるのではな

いか::常識ほどわからないもの

はない、と。

ま、小林ぶって名言を生みだそう

というのではないので、それが何?

と言うのではないが、僕らの頭に

はその言葉の直接な意味は数万も

ありながら、言葉の示す数億、

数千万も直接な対象への実感的な

理解は千から五千もあればいい方

で、よく考えている方なのかも

しれない。

僕らが文明・文化の進化発展に

よって知識が膨大に蓄積された

と考えているが、それはスポー

ツファンが応援しているアスリー

トが優勝した時のようなもので、

それはその選手の人生を変える

だろうけれど、あなたの人生には

どれほどの影響を与えるものだ

ろう、エンタメの映画やドラマの

ように一時的なストレス解消や

勇気をもらったというカタルシス

をもたらすだろうが、あなたの

人生を変えるほどだろうか。



人と比較してもしかたない、自分

の人生だから。僕の死をも無視

する勇気は自分の気持ち悪さをも

越えて、19歳で陥った無の意味

を解決しようとして飛び込んだの

が、新興宗教だった。宗教に入信

するのは気持ち悪いことだった。

しかし、体験の意味もわからず、

そのまま平穏に過ごすことはでき

ないと思い、僕は気持ちを押し

殺して、探りを入れたいという

知的欲求に従った。

そこはまだ宗教法人になり立て

だったのだろう、オウム真理教

だった!!!!

オウムは坂本弁護士一家殺人事件

から世間を騒がす一連の事件を

起こす世界的にも有名なテロリスト・

カルト集団である。知っておいで

だろう。

あろうことか、僕はその歴史の

一端に、わずか3か月半くらいだ

が、触れていたのだ。自分が歴史

的事件の端っこでも関わったと

いうのは想定しないし、実感が

ないものだ。

その期間はちょうど坂本弁護士の

事件が起きる直前の平成元年の

7月に脱会して、世間を騒がす事件

を多くの人とと同様に、TVの前で

傍観者として眺めていた。

坂本氏の現場の家でオウムのバッ

ジが発見されて、オウムの仕業で

はないかと噂されたが、僕も半信

半疑でよくわからなかった。

もしも、在家信者でなく、出家し

ていたら、組織の行動に巻き込ま

れていたかもしれないので、その

違いは紙一重だったのかもしれ

ない(危なかった)。サリンを

撒いた地下鉄テロ事件では被害者

も多く、気の毒なことだった。

オウムの思想とか行動とかには

無関係にオウムで知ったことは

それからの人生に大きな影響が

あった。それは新興宗教の経営

のからくりであったり、半端ない

宗教洗脳の体験効果とその自力

脱却や、あとで役に立つヨガの

呼吸法や、県警と警視庁の対立

が実際のものであったことや、

テロリスト麻原教祖こと松本

智津夫の悟りの嘘・あいまい体験、

その経営手腕といい加減な仏教

解釈、初期のオウム神仙の会

(初期はスピリチュアルだった)

の頃の超能力修行の欺瞞、など

など。

3か月半でも脱却できたのは、

皮肉なことに19の無の体験の

強烈さのほうが洗脳よりも上回っ

ていたからだった。それが逆だっ

たら、オウムに残っていてどう

なっていたかわからない。無の

体験がそれを解明しようとして

入会したオウムに洗脳され、結局

は解明できなかった無のショック

体験が洗脳を解いた。だから無の

体験のほうを僕が信じるのも無理

はない。

こういう人生は尋常ではない。それ

で尋常ではない体験が尋常な常識

というものを理解するのだろう。



あまりこの先を書きたくないので、

書くにしてもすぐには書かない

だろう。子供たちもいい大人に

なったし、自分で家族など自分たち

を守れるだろう。この時まで世間

に顔出しはしたくなかった。オウム

は自分の中でこれまで封印されて

きた。オウムは僕の中で人生の

6,7番目に重要な事件であって、

隠したいほどのものではないが、

世間的には一番だろうとわかる。

だから、子供への世間からの風評

被害たる影響を避けるために書く

ことは控えた、それだけだ。

そして、また宗教心理や人の心理

の基盤については大きな示唆を

解明させて、与えてくれた。



まさか、ここで書くとは思いも

せず、自分でも驚きもし、そうか

今か、とも思う次第だ。年月は

経つものだ。これ、投稿していい

のだろうか、と思うが、してしま

うのだろう、僕のことだから。


秋の 夕べ 

まさか ここに来て 

鳴かずの オウムを 

鳴かすとは 



::

くどいとは思うが、僕はオウムへの

入信期間は3か月半くらい。世間や

世界に知れ渡るテロ事件を起こす

やはり3か月前に退信しているので、

テロとは一切関わり合っていない。

外部信者なので、内部のことは噂

も知らない。



県警と警視庁とで2回ずつ、4回

刑事が訪ねてきた。1回だけ県警で

調書を取られているが、日誌に

退会のことは書いていたので、

そのコピーを取っていた。

その4回だけで、それ以降は警察

からの取り調べ・訪問はない。

主にオウムの逃亡犯がいたので

その潜伏先から外すために取り

調べを行ったものとみられる。

・・やれやれ。



オウムのテロに直接被害を受けて

殺された人、障害が残った人、

また犯人に間違えられてきつい

取り調べを受けた人たちを除いて、

間接的な外野である僕らには大き

な事件ではない。日頃から忘れて

しまっているではないか。

僕にはウクライナから連れ去られ、

ロシアで洗脳教育を受けて将来

ロシアの兵隊にされる多くの子供

たちのほうを憂える。彼らに人生

の選択をする機会はほぼないに

等しいだろう。

僕らは大事なことでも最低限、

気にしなくてはいけないと思う

だけで、いつの間にかそれも

取りこぼし、身の回りだけで

済まそうとする、所謂、いい人

ではないだろうか。

僕も還暦になり、自由な生活の

選択ができるまでは、なにも

すべきではないと思っていたし、

なにもできなかっただろう。

鉄が十分に熱せられるまでは、

叩いても鋼にはならない。それ

ぞれの人生の時期があるだろう。

僕は今、それを取り戻そうとし

ているのかもしれない。オウム

ではなく、仏教やキリスト教や

イスラム教、儒教、聖書の犠牲

になっている宗教を必要として

いる僕ら人間の性(さが)に

ついて、・・それを。



死なば 死ね 

我 頭蓋の化石 もろともに




’23 . 9.23

nice!(6)  コメント(2) 

nice! 6

コメント 2

センニン

ご訪問 & nice! ありがとうございました。
また遊びにきます。
by センニン (2024-01-06 18:12) 

ようしゅう

申し訳ないです。返信、忘れていました。

ご訪問ありがとうございました。
by ようしゅう (2024-02-05 23:11) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。