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ねこ瞑想と美しい空 [日記]

それなりに運動の意味で歩いて、

5000歩を越えたので、寝られる

つもりだった。昨日も、一昨日も

寝られたので、そうなると思っ

ていたが、かなり興奮している。

体が炎症を起こしているのだろ

うが、実際にいろいろな情報が

頭の中を飛び交って、それに

好奇心が強く刺激されて、寝て

いるどころではない、と起きる

のを促されているのがわかる。

それはブログを書け、という

ことではないのだが、つい今の

状態を確かめたくて、坐ってし

まう。パソコンを開けば、いろ

いろな情報を求めて、情報サイト

のサーフィンを始めてしまう、と

いうわけだ。

細切れのテーマばかりで、印象

情報だけなので書けるに至った

テーマはない。

すると、なにも書かないでジッ

としていよう。足元が冷えるので、

セラミックヒーターを点けてみた

りする。なにも思い浮かばない。

それにしても最近は、知的興奮に

見舞われるようだ。新しい情報に

そこにアプローチする機会ができ

たことに嬉しくて興奮するので

ある。完成とか、それなりに網羅

してまとめようという気は、あま

り起こらない。勉強したくない

から、読書でさえ、情報のピッ

クアップしか考えていない。

読んで楽しいものなど100冊に

1冊だと思っている。すべて

マニュアルを読むように、如何

に素早く情報を本から吸収する

かに掛かっている。

それで今日も悟りは量子力学だ

と書いている本を購入した。読み

たいとか、新しい考えだと思った

とか、感心したからではない。

批判するのにちょうどその都合の

いい項目が並んでいて、説明が

加えやすいからだ。図書館にあれ

ば借りるのだが、電車を利用して

借りるくらいなら、廉価で中古の

本屋にあれば購入した方が経済的

だ。本屋にあったのを一度帰って

調べてから、購入することにした。

「錯覚する脳」という題だ。

「脳はなぜ心をつくったか」とい

う本を書いた人で、これもだいぶ

前に購入したもので、これから先

に読むべきだろう。と言っても、

思い出す前にもう購入してしまっ

た。人生はそんなもんだ、という

洒落めいたことも言ってみたく

なる。同じ本をダブって買ったの

ではない、まだよかったではない

かという慰めもあるが、もちろん、

慰めになっていない。

本をアマゾンで調べていて、面白い

本を見た、「ねこ瞑想」がそれだ。

「毎日5分ねこになる」「ねこ写真

を眺めながらニャンとも幸せ」とい

うもので、すぐに、あ、理に適って

いると思った。

それは瞑想への導入としては優れて

いるからだ。猫が好きなら、それを

利用するのはうまい手だと言える。

始めは猫の映像ばかりを思い浮かべ

て悦に入る、ということになるの

だろうが、人は同じことを続けては

いられない。映像を結ぶにも軽い

集中が要る。それはやがて切れる

時があり、隙間ができ始める。

猫は人間のように思考するのでは

ないから言葉はない。もっとも、

人間に対して要求するのに必要

なので、ニャーという対人間語を

発明はしたが、・・。

猫同士では鳴かないから、どうにか

交信しているはずだが、一緒に暮ら

していないので、わからない。

犬はほんとうに面白い。その笑った

顔は知っているだろう、まったく

傑作だ。悲しそうな顔もして見せる。

それをなにか失敗した時でも演技で

してみせるから、賢いのか、偉いの

か、ズルいのか。面白い。見れば

参る。降参したくなる。


君が  三度の飯 よりも 

悲しい顔の  おたふく雲 

笑う顔の  チンドン屋 


見かけなくなったねぇ、チンドン屋


能登半島地震の復旧がずいぶんと

早いと感じる。1ヵ月と10日で

もう仮設住宅どうのこうの、近くで

店舗を借りて営業開始だの。東北の

3.11地震の復旧が長く感じたのは、

やはり原発事故のためだったのだ。

それで思い出したが、近所の246号

線の交通事故だが、明け方の事故だ

ったが夜には信号を回復させてし

まった。信号機本体は壊れていない

ので、代わりの金属の電柱を持って

きてそれに取り付けて、開通とした。

明日になるかと思っていたので、

手馴れている。それはそれだけ事故

の件数が多いことかもしれない。

その日は4時には起きたので、ごっ

つう眠かった。図書館の駐車場で

25分ほど仮眠したが、眠れなかった。

この時もなにか、脳が興奮していた。

しかし、車の窓から眠いぼんやりし

た頭で見た、空が美しかった。

こんなにすっきりしない頭の調子で

見たほうが、ただ綺麗だ、ではなく

美しいとまで感じるのに、なにか

場違いな思いだった。これだな、

これは山を登って、疲れ切って、

考える力もなくなって、ただなんの

想いもなく見る景色がそのまま記憶

される体のシステムがあって、下界

に降りて、少ししてから思い出すの

は必ずそういう時に観た景色の美し

さなのだ。眠くてなにも考えられな

い状態だからこそ、ありのままを

見るというのに達したのだ。

意識はしないが、それが本来は

見る、という意味なのだ。

座間図からの空-1.jpg

写真で見ても素晴らしいと思うの

だが、これは僕のその時の記憶を

なぞるからだろうか。

なんでわざわざ美術館に絵なんか

見に行くのだろうと思った今の

瞬間だ。

月を見ればいい、星をみればいい、

空をみればいい、猫を見れば、・・。


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休憩日記3.ラスト 月の背景(補色)はなにか [日記]

10 . 29 - 30

今日は満月。

夕刻にはまだ月が昇っていなかった。

日も替わる深夜には真上に出ていた。

「皓々と」という日本語がよく当て

はまる輝きで、周囲が暗いので

眩しい。老眼と眼鏡の所為で月から

放射状の光が出ているようで、見え

たり、消えたりするが、右上に伸び

る光はひと際強く輝いて、レンズに

まっすぐ伸びていた。

1分も経たないうちに首が痛くなっ

て、少し歩いてカーポートを出て、

また月を見る。わずかに右端が

欠けているように見えるのは、昼間

のうちに満ちたからだろうか。


なにか満たされて、玄関に戻り

家に入る。この満たされ感は、よく

わからない。気持ちが満たされた

というよりは、精神的な気がする。

が、それなら胸よりも胃よりも

別な部位の臓が満たされるのでは

ないか。胃はハンバーグを入れて、

満たされてはいるが。


家に入ると、まず白っぽい壁に

月の残照が青で映った。青?赤の

補色ではないか。だとしたら、月

の光は赤だったのか?そして、

3階への階段の照明を消してから

上ると、眼球の奥の月の残照は

赤いやや小さな点だった。その

周りは青い光がギザギザに輝いて

いる。赤?その補色は青ではない

か。さっきの補色の赤が青の補色

を生みだしたのか。こんな短時間

で?


どうして眼球のプリズムは赤と青

を交代で10秒くらいの間隔で交代

して補色を網膜に取り込んだのだ

ろうか?


学校で習った基礎的な知識では

こういう応用と言うか、変化には

対応しきれないようだ。眼は本当

は何かをどのように見るのか、

どういう構造とその関連で見る色

が変わるのか。まだ調べる気には

なれない。それほど満足した満月

だった。


気も充実してきたようだ。月の気

に十分張り上がるものを感じる。

それが僕を興奮させる。あと3日

もしたら、休憩を切り上げよう。

改めて、生活というものを目の前

に空気を固くするように凝縮させ

ると、それを手の平で潰せるよう

な感覚になる。


あと3日、ちょうど11月になる。

神無月は十月のことだが、旧暦

では今年は11月13日かららしい。

来年は11月1日からとなる。

諏訪地方では出雲の神が分身して

昔、日本海から信濃川、千曲川を

渡ったらしい。諏訪に住み着いた

神は出雲には帰らない。それで諏訪

でも10月は出雲と同じく神在月と

いうらしい。これはあまり知られて

いない。だから、学校でも教えない

のだろう。映画「神在月のこども

(2021)」はこの諏訪地方の神在月

を扱っている。

この世で充てになるものはなにも

ない、のだ。足で歩いて探すのが

一番。でも、最初はネットを開く

のだろうな。
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屈人織辺の日記 12.中国飲茶への試論 [日記]

或る日、東京の体験教室でつくった

湯呑を、完成したので持って帰り

ました。一応志野がけ(釉薬)で

すが、特に佳さもなく、手に持っ

てもやや不安定でいまいちなもの

でした。

ところが、それでお茶を飲んで

みた処、うまいと感じました。

その前にぐい呑みを小さめに、

3個ほど作りました。

ぐい飲み3個-1.jpg

左上は白薔薇の造花の花: 

遠近の関係で奥の茶碗が小さく見え

ますが、右下の一番大きい茶碗と

それほど変わりありません。(錯覚)

この3種で梅酒を飲みましたが、さし

てうまいというほどでもないのです。

まだお茶のほうが飲めましたが、

それでも特にうまいわけではあり

ません。

ところが、下の茶器で飲んだら、

うまく感じたのです。

ぐい飲み3個-1.jpg

盃より少し大きいくらいか:

これまでは問屋街で購入した大きめ

の湯呑か、秦野の教室で手びねりで

造った重い湯呑で飲んでいましたが、

明らかに差を感じました。

しかし、なぜでしょう。持つのにも

半円形で茶の液体が安定しないし、

持って、落としそうな形になって

いる。どうしてこれがお茶の味を

うまくさせるのでしょうか。

直感ではこれは不安定なので、感覚

が尖るためにおいしく感じるので

はないかと教えていました。

今までは縦長で、余程でない限り

お茶がむやみにこぼれることはなく、

安定していましたが、初めて不安定

な湯呑を使ったので、その所為で

感覚が刺激を受けたのでしょう、と。

それはそれで正しかったのですが、

そう思うだけでは証明になりません。

たまたまその半円茶碗がそうだっ

ただけかもしれないのです。

そこから変化を加えたぐい呑みを

作り続け、どんな形に意味がある

のか、ないのか、または他の形

でうまいのを発見するのかの

日々が始まりました。

これまでして来た日常での身近な

実験と同じで、特別なことをやり

始めたということではありません。


次に驚いたのが、ルリ掛けで失敗

したくすんだ色になったぐい呑み

でした。これも電動ろくろに慣れ

るための過程で生まれた、試作の

ぐい呑みでした。

また持ち帰って、試しにお茶を

飲んでみると、もちろん、半円の

お茶のみより小さかったのです

が、これがうまく感じました。

そこで想像したのです。視線から

ぐい呑みまで目の両脇から鼻の

両脇を通ってぐい呑みに注目す

る角度を見ました。

つまり、その眼の両側の線が三角

に集まり、ぐい呑みを見ます。そこ

では鋭角が作られています。そう

いうように感覚も誘導されて、お茶

に意識が集中したのではないか、と。


中国の飲茶はとても小さい茶碗で

飲むというイメージがあります。

美術漫画にもそういうシーンが出て

きました。ですので、そういうもの

だと思っていましたが、先日中華街

で確か、担々麺の飲茶セットを頼ん

で、小さい飲茶のイメージは崩れ

ました。

目の前に置かれたポットは大きな

マグカップのようで、最初急須か

な、と思ったくらい。女子店員が

茶葉が浮いていることもあるから

吹いて、どかしながら飲むように、

ということを伝えてきました。

そうでしょう、急須にしては注ぎ

口がない。蓋を開けると、確かに

プ―アール茶の濃い茶系のお茶が

たっぷりのたまわっていました。

取っ手を掴んで持つと、重いこと。

こんなに重い入れ物で、たっぷり

の重いお茶は初めて飲みました。

中国の極小飲茶はどこにいった

のでしょう。

なるほど、中国の湯呑はふつうに

大から小まであって、どうもあの

イメージは特別のようです。

そこで調べてみました:

飲み比べ5-1.jpg

<アマゾン:広告より:::
宜興市は中国江蘇省南部に位置する、

歴史と文化に名高い都市です。紫砂

の陶器が名産品であり、中国の「陶都」

と呼ばれています。

紫砂壺は国内外で名高い茶器となっ

ています。宜興紫陶は、中国の地理

的シンボル商品です。

黒泥龍紋紫砂急須という宜興陶土

急須は、明代の正徳時代から作ら

れた、中国で唯一の手作りの陶器

の手工芸品です。>

と、7000年の歴史を持つ伝統品

ということです。

その湯呑の小さいこと。口径は

4,8cm、底径は2,8cm、高さ

も3cmしかありません。

このおままごとの大きさの湯呑

4個と急須で1万円します。

茶葉も1急須に1種類をお勧めする、

とあるから電子レンジはOKでも、

手洗いで、また長く使うとお湯を

注いだだけでお茶の香りがする

「茶山」という物質が急須内に

発生して、茶人の雅な気分を

引き立てるというものらしい。


その伝統明媚なぐい呑みを作ろ

うとしたところが、ぐい呑み3種

の中に偶然、同じ口径・高さの

ものがありました。

飲み比べ1-1.jpg

普通の急須で大きさを比較できる

ようにした。件の茶碗は右下のもの。

左上から、重い湯呑・半円茶碗・

それよりうまいと感じたルリ掛け

ぐい呑み・白っぽいのが最少ぐい

呑み。(急須を除いて、自作)

飲み比べ2-1.jpg

遠近で手前のうす青(白とも)の

ぐい呑みがルリ(青)掛けの、奥の

ぐい呑みよりも大きく見えるが、

口径は同じ。で、背が低いのでそれ

だけ小さいです。


さて、これらを毎日、多いのは

毎晩ですが、それぞれ飲み比べ、

今はルリ掛けと最小ぐい呑みだけ

を並べて飲みっ比しています。

そこで結論ですが、個人的な実験な

ので70%の支持しか期待できない

し、それが適度な賛成票だと思って

います。

まず気づいたのは、習慣の影響の

大きさです。安定した縦長の湯呑で

飲んでいて、最小のぐい呑みを

試飲した時は一口で、するっと

お茶はなくなりました。ところが

です、ルリ掛けのぐい呑みで飲み

慣れてから、白のぐい呑みを飲むと、

一口半から二口に増えたのです。

続けていると、それが二口半か

ら三口に増えてしまいました。

気づかず、自然にちょびちょび

飲むようになったのですね。

そして、これが中国飲茶だと、

思い当たりました。中国の茶人

はお茶をどれだけうまく飲める

か、を試していたのでしょう、

大昔から。だからそのうちに

小さい茶器のほうがうまいこ

とに気づきました。

これは感覚が鋭角に尖るから、

鋭敏になり味覚の感度の容量

を増やしたのだろう、と推測

されます。

ぐい呑みだったものが、もっ

と小さくしたらどうだろう、と

限界まで手で持てて、それなり

のお茶の液体量がある器、それ

が伝統の茶器になったのだろう。

明らかに追及の結果だという

ことが伺える、と考えました。

これが中国ミニ茶碗の由来だろ

う、と。

お気づきでしょうか。これも手前

味噌になるのですが、この試論

を述べるために実験のぐい呑み

の小道具が、このために作られた

のではないこと。最初の手びねり

の一般的な湯呑は除いても、体験

のための試作が二つ、もうひとつ

最小のぐい呑みも余った粘土で

作れる大きさで作ったものなので、

それを作ろうとしたわけでは

なかったのです。ところがそれら

が揃うまでに感覚の気づきがあ

ったので新しくぐい呑みをいろ

いろ作るつもりでした。ところが

です、それを見越したかのよう

に以前のものが出来上がって、

結果、新しいぐい呑みを作らず

とも、それらで間に合ってしま

いました。実に楽しい偶然が

あったということです。

まるで、見よう見まねで作り

ながら、なんの意図もなく試作

を作りながら、今日を見通した

かのような器を作っていたとは、

驚きと言える?でしょうか、です

が、そうは言えません。

ぐい呑みは互いに似たようなもの

です。その二つが偶然役に立った

からといって必然な仕掛けが裏に

あったとは言い難いのです。

ただそうとも考えられる、そうい

う運命的なと思わせてくれる日常

というのは私にとって楽しい、そう

思わせてくれます。



風通しのよい、屋根ばかりの縁台

で沈みゆく夕陽を眺めながら、

お茶を殊更、小さな器でちびちび

飲む、ということに雅を見出した

茶人は日本にもいた気がします。

いや、今でもいるでしょう。そう

思うだけで、私ももうひとつ、

完成度の高いぐい呑みを作りたく

なってきましたから。

秋の夜長に備えてー。



2023年  秋
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