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知恵の根幹は今ここにある [知恵]

何をなすべきか、ということ全般が

今は霧の彼方のような掴みどころの

ないものになって、空中分散して

しまったのではないか、と訝る現在

が続く。

はっきりしたのは全米TOP10大学で

必読書の第1位がプラトンの「国家」

で2位がカントの「純粋理性批判」

であることから、その批判を思いつ

いたことくらい。

なにか大きなテーマを見出したと、

その時は感じたが、また途方もない

徒労を見出したな、という気分にも

させてくれたとも。

次第次第に、回り道をしている暇は

ないぞ、と言われていて、それは

わかっているが、と答えようとして

また憂鬱になる。

憂鬱になると言って、鬱にならない

ことは知っていて、この処その気分を

味わうには人と会う機会が少ないの

で、無理な話なのだ。

そこで戯れにでも憂鬱という言葉を

発すると、少しは憂鬱への郷愁の

ような感じを思い出すので、そう

してみた、だけなのだが、それだけ

でも嬉しいのは、おかしいだろうか。

世捨て人というのは世を捨てた人で

はなく、世から捨てられた人だと

小林(秀雄)が言っていたが、世は

人を見捨てないように動くのだろう

が、その人が自分の過ちに気づくか

どうかを見るために村八分にして

孤立させることはある。これは

家庭内でも起こることだろう。

そして、見ないようにして見ている。

誰かが気に掛けてはいるのだが、

本人がそれに気づいて反省しなけ

れば、そのままの状態に耐えられず、

やがてその本人から世から離れる。

孤独な一人の生活を始めるのだろう。

まだそれでホームレスになる人は

まともかもしれない。最後の処で

社会のシステムとつながっている

からだ。

僕がここにいる訳はしっかりした

理由があるからだ。つまり、それを

承知しているから、僕は孤立したり、

そのために孤独を感じたりしないの

だが、それは精神の内面という世界

での出来事の上で、実際の現実社会

とはあまり縁がない。

そして、現実という場面にいつも

ヒリヒリしたものを感じている。

これは何かになろうとして、何物に

も(また何者)なれないことを示し

て、この世との隔絶観を意味している。

自分を持つという状態が、自我を立て

て情意に拠りどころを求める性質から

僕らは孤独になってしまい、その感に

責められる。それは安心できないと

いう絶望が根底にあって、それこそ

は存在とか言葉を使っているが、

僕らの根底を揺るがしかねないもの

だからだ。

どういう意味か?

例えば一つの例で言うなら、::

僕らは便利さから数字を、また数学

を編み出した。円周率(Π)を考え

てみよう。

率だからそれを数字で規定しようと

いうことだ。10を3で除算すると、

10/3で書くのは済む。これを少数

で書こうとすると、たちまち3,333

3333333333333333333333333

33333333・・・・とキリがない。

それが10/3のように書ければいいが、

Π(パイ)ともなると、3.1415926

5358979323846264・・・とこれ

は10/3というように短略化して書け

ない。

上のΠの数字は記憶だけで書いたので、

間違っているかもしれない。24数

あるのでたぶん、平気だ。

小学校の時の百科事典に載っていた

ので暗記した。古い記憶は消えにくい。

60歳以降に120ケタまで暗記したが、

2,3週間ですっかり忘れた。

さて、このΠ を使って目の前に書か

れた円の円周を出すことができるが、

おかしなことに気づいただろうか。

円はきっちり書けているから、その

長さはきっちり決まって数字で

出て来るに違いないと直感で思える

ことだ。しかし、Πはいまだもって

その解は出ていない。コンピュータ

で計算して数十万ケタ、いや数億ケタ

まで出ているのだろう。

現実の円を見てくれ。完結している。

ひとつくらいきっちりとした数字が

出てもおかしくない。が、でないの

だ。つまり、例えば5㎝の紐を切っ

て、それを円にした場合、円周は5㎝

になるのに、今度は直線である直径

が決まらない。円周が決まった場合

はΠから直径も導き出されるが、なに

しろΠは数字が終わらない。

直径=円周の長さ/Π、であるから

明らかである。直径がスッキリした

数字で出て来るには円周の長さも

パイと同じに天文学的数字になら

なければならない。直径という直

線も円周という曲線もどうもどち

らも決まらないようだ。

見れば現実は一目瞭然ではないか。   

直線はスッキリ切れている。そこに

数字が何億も並ぶような仕掛けは

ない。

こういう時はシャーロック・ホームズ

が言ったように「私の方法は、不可能

なものをすべて消去すれば、あとに

残ったものがいかに不合理に見えても、

それ以外に真実はないという推定から

出発するんです」とあるように、

数式が目の前の現実を導けない以上、

現実が正しい以上、数式の仮説、この

場合は導き出す円周率、または直径の

数字だが、が間違えているということ

になる。「いかに不合理に見えても」、

だ。

それはそうなのだ。約、同じ大きさ

のリンゴが3個、ミカンが1個あった

とする。親が二人の兄弟に分け与え

る時に、兄にはリンゴ2個を弟には

リンゴ1個とミカン1個を渡したら、

これで2個ずつよ、平等だから喧嘩

しないでね、と。

こういう時に算数は便利なもので、

役に立つ。が、現実には2個ずつでも

同じ果実ではないから、厳密には平等

ではない。2個ずつというのは便宜的

なことであり、同じ2個というのは数

の量が同じであって、現実の味はリンゴ

とミカンでは大分異なってしまう。

つまり、数字は現実を概念化する

道具に過ぎず、「現実を写し出すもの

ではない」から、現実から真実を照ら

し出すことができないもの。

だから、Πの計算など10億分の1ぐら

いの小数点以下、9ケタくらいでとどめ

て十分なのだ。それ以上は現実に存在

していないもの、だから。

それは大所から見れば、こうも言える、

数字や数学では現実を描けない、と。

それは数字の世界の概念化された、

地図とか模型とか見取りという仮説

であって、現実を数字の一方向から

だけで切り取ったもの、それは皮肉に

言えば仮想であり、偏った偶像である

ものなのだ。

科学者は宇宙を見て、それを科学とい

う数字で切り取った絵を描くが、それ

は現実の宇宙ではないということ。

生活も同じだ。時間はそういう想定を

利用して、機械で僕らは同時刻を想像

する。そうして時刻表にして社会生活

のあらゆるインフラに役立てている。

しかし、時間は自分(時間の存在)を

同定できない。

朝も夜も日の出も日の入りも、同時刻

になるのはその地域では、年が変わら

なければならない。毎日違うように

計算されているが、僕らには朝は朝で、

夜は夜だ。おまけに日の出の位置も

夕陽の位置も同じように毎日ズレて

変わる。それは地球の自転と公転の

速度に関わっている。


僕らは年末の23時59分59秒から

元旦の0時00分00秒までになにか

生活が変わってしまうことは、まず

ない。

世界時間は「1秒はセシウム133原子

の基底状態の二つの超微細構造準位

の遷移に対応する放射の周期の91億

9263万1770倍の継続時間」と

1967年に定義されている。振動数

(周期数)で数えているので、その

粒子が交替すると、微細に変わって

しまうのだが、それをなにかで同定

して、正しいかという測定ができ

ない。精々、同じ別の粒子の振動

と比較するくらいか。そして、

それも厳密には同定した、とは言え

ない。

僕らはそういう時間とともに、実際

は時計とともに生活しているので

あって、時間を確定したりできない

し、見たり聞いたりはもちろんでき

ない。

ところが、そこに数字の、数字だけ

の正確さは含まれるから、僕らは

正確にして精確なものがあるという

錯覚に陥る。

僕は現実を半世紀は観察したつもり

だが、そんな充てになるものはなか

った。あるのはその時その場で役に

立つ、ある側面でしか現実を捉え

得ないという計算や指標や空想に

類する学だけであって、そういう

ものから現実に何かが生みだされる

には現実の矛盾や問題を長い時間

をかけて数々を解決しなければ

ならなかった。その後でやっと

実用化されるという結果が得ら

れた。

科学の法則は長いスパン(期間)

で保つものがあり、比較的長生き

だった。万有引力の法則も100年

は持ったのだろうか。

万有引力も仮説であるのは論を

待たない。重力が引き合うのでは

なく、互いに近づく運動の様相に

見えなくもなく、それはまだ不十分

な論だが、存在しているらしい。


問題は僕らだ。そういう数字も、

数学も、時間も、哲学も、科学も、

それらを利用して生活する長い時が

あったので、その概念が宗教のよう

に心に染み渡っていないだろうか。

朝に、夕に、お祈りする、教会に

行く、お祈りする、ノートに毎日

計算する、時計を毎日眺める、その

間に僕らの心はなにを取り込んで

いるのだろうか。どこかで衣服を

洗濯するように、心についた錯覚

や誤解を洗い流すことをしてきた

だろうか。

それが何を意味するのかを、誰が

見るのだろうか、聴くのだろうか、

肌に感じるのだろうか。

見るとは何か。眼球で見える部分は

限られている。ではなぜ眼球の開放部

360度の視界があると僕らは思い込ん

でいるのだろうか。

耳は、匂いは、骨は、皮膚は、そこに

も僕らの考える要素の一部が脳に指令

を送っているのを知っているだろうか。

知らずともかまわない、問題はそれが

重要視されないことだ。

全米トップ10の大学が2千数百年もの

古代のプラトンの「国家」を必読書

第1位に選ぶくらいに、人類は社会で

の評価(国のあり方、理想、正義)

ばかりに感心が行き、自然と心身の

生活にはなんも進歩することはないん

だな、となぜ誰も思わないのか。

その方が僕には不思議なのだが、・・

・・。




とまあ、これはそれほど画期的でも

ないし、世界の傾向の大雑把な面を

泡立ててみただけなのだが。国家的な

国際社会の文明や文化と同じくらいに

広いし深いかもしれないが、そこに

取りこぼされた世界も必要だと思われ

ることが現在では徹底して足りない。

心を心理学でと言うが、心理学は精神

分析をする方法を言う。精神はなるほど

心の一部だが、分析するは、また哲学

する、科学するというのと同じことで、

脳の解析で心がわかるというのと同じ

間違いを犯している。が、それさえ

疑われていない。

また善と悪という概念の仕組みが解か

れなければ、その精神にかかる自己

崩壊の危険因子は生みだされ続けて

甚大になるし、一人の犠牲で100人

が助かるなら、その犠牲はやむを

得ない、という単純な計算思考を

する愚かさから逃れ得ないと思わ

れる。それは事実の根幹を理解しな

いことから始まる。



::メモ

なんか、堅く終わる。言い足りない

のは、理性の発生は知性単独による

ものではないこと、その生成は人生

経験が必要とされること。その働き

が適時に適応して働いたことを称し

て、知恵という。(内容は今は省略)

:忘れないうちに:


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