SSブログ

秋の人類は夜長の夢を見る [夜長]

過去は変えられない、と教わった。

そうでなくても、起こったことは

戻らないと、映画でも小説でも

ほぼどこでも聞いたことのある

台詞だ。

過去はおかしなもので、人が皆

逆の方向に後戻りで歩いたり、

走ったりするのが過去へ、だと

思っている。(映画「テネット」

から)

その話は飽きただろう。僕も飽き

た。時間があるかないかの話に

なるからだ。

話すことはこの世のことならいくら

でもあるのに、それがすべて因果か

ら流れ出て、小さい紆余曲折、大き

い紆余曲折の時間帯やその期間が

異なるだけでその絡まり方が無限大

でその流れを任意に区切った処が

始まりなのだが、実際には僕らの目

があるので、その見方から始まりと

終わりがあるように見える、そこを

始まり(終わり)とする。

それにしても流れはあらゆる秩序を

含むものだから、形は一定のパターン

があるように見えても、全体はただ

のデタラメ・無秩序なのは仕方ない。


それらしさがいつの時代も、紀元後

百年くらいから今日の社会まで漂っ

ている。

流行と同じように姿・形は変えな

がらもその中心や本質たるものは

変わらず、くり返すように見える。

だから、くり返さないようで、その

大きなパターンはくり返し、それ

も少しずつや、もしくは大きく

パターンも変えて。 

西洋と東洋は大きく違う思想の道を

分かれて進んだのが見える。

ージョン・レノンは東洋と西洋は

ひとつになるという歌の歌詞があっ

たが、新しい中国や東洋思想にかぶ

れただけで、Imajineのような強く

打ち出せる自分の芯の心ではなかった。

彼はわからない、とも言ったがその

方が正しかったようだ。


紀元前1000年前か、その頃に心が誕生

したようだ。それは動物よりも変化が

強かった画期的な自我の誕生に思える。

つまり、人間らしさの誕生である。

それから5百年もして、同時期に

ブッダその他インド思想の諸子百家が

現れ、中国大陸には孔子と中国の諸子

百家が現れ、少し遅れてソクラテス

が登場して、それぞれに悟りや天・

君子や無知の真理を説いた。

ソクラテスを除いて、彼らの言葉は

概念だけで語ったものではないので、

それは人生経験という人間関係や

社会経験をこなすことが必要だった。

それらは仏教や儒教、ソクラテスの

問答に知恵として込められていると

いうが、人生や人間の機微を解くの

は概念の結果となったもの、すなわ

ち知識ではないので、語れないもの

としての定評がある。

例えば、ブッダだが、彼は悟りを

非常に厳しい環境下に自分の身を

置いて、修行してその結果、悟りを

得た。ところが、彼自身それが誰に

ついても適した方法ではないこと

に気づき、禁じてしまう。

彼が悟った方法を自ら禁じなくて

はならなくなったのは皮肉なことで

ある。そして、ゆっくりとそれほ

ど無理なく修行法を教えたので

あろう。

だが、それは教えを曲げることで

はない。弟子がブッダの姿を写し

取り、それ(仏像)を拝みたいと

申し出た時にブッダはそれを禁じた。

あまりにしつこくか、大勢に言わ

れたか、面倒で足の裏でも拝めば

いい、と言ったとかどこかの本に

書いてあったが、それが仏教の

初期に仏足跡(足の裏の彫刻)が

残っている証拠だと。その経緯の

真意はよくわからないが、彼が仏

を刻んでそれを拝むな、と言った

のには相当の理由があるのはわかっ

ている。それは偶像崇拝を嫌った

からだろう。

それは謙遜とかではなく、自己を

信じるには自己を突破して失くさ

なくてはならない仏教独自の逆説

が成り立っていたからだろう。

神とか何かに拠って自分があるの

ではなく、自己によって自分がある

という立場だったからであり、それ

を矛盾なく考えることは不可能で

そうではなく納得することに

悟りの感覚的な技術があった。

知識や概念からの技術ではない

のでそう言ってしまってもいけ

ないのかもしれない。

僕は彼の時代をコントロールす

る意識が人間としてどれくらい

続くのか計算してみたが、彼の

掟を破り、悟りから衆勢を救う

という傲慢な面もあるその思想

潮流に舵を切ったのが、ブッダ

の死後3,400年後のことだった

ので、もう悟る者も出なくなった

その頃誕生した大乗思想の登場の

ことだ。(法華経が有名)

つまり、悟りは大乗(衆勢救済)と

いうブッダの悟りのカスになった

のだが、そのお陰で概念解釈ができ

るようになって、全世界に拡散する

ようになった。教科書化したのだ。

儒教はすぐに絶滅しかけたが、やは

り後続の賢人がそれぞれ記録を集め

解釈を施して、どれが孔子の言葉か

後人の加筆か判断困難で、確実性

が弱くなってしまったが、(特に

論語)そのお陰で思想として怪しい

ながらも、日本の幕末では武士の

教科書的な扱いを受けた(朱子学)。

西郷隆盛も勉学して「敬天愛人」

の標語を自分なりに掲げてか、

死後は神様として西郷神社に祭ら

れた。

ソクラテスは人との問答でいかに

我々は無知であるかを自他ともに

知らしめるために行ったが、若者

に大人をからかうのにマネされ、

それを政治利用され、中傷されて

毒を飲む刑を申し渡された。彼は

それを神との契約として考えて

いたので、逃亡を説得する友人

達の前で、体のどこが冷たくなっ

てゆくかと毒の回りの実況中継を

しながら息絶えた。プラトンは

それに自分の思想を交えて、賢人

政治などの理想を語ったようだ。


彼らの直接な心を扱うための、最初

の思想の試みはそれで出尽くして

もいたが、それだけでは終わらな

いように見えた時代の背景があり、

それが多くの解釈も求めて、多く

のそれらの亜流が流れ出た。

亜流は新しいと解されて歓迎され

たが、それは流行であり、時代の

好みを加えたに過ぎない。人々の

表層の経験に新しい解釈を与えた

ものだ。


そういう複雑に見え、細少化する

哲学が日常から離れて役に立つのか

疑問に思われ、やがて廃れて、その

間にも科学が隆興したのは自然の

なせる技だ。

人生は個人には膨大な数をこなして

結果を残せるには時間が短すぎる。

そして、結果は思想家の独自な個性

に振り回されている。その小さな点

を突き詰めてその本質らしさから

体系や真理のまとまりらしさを求め

ても、針ほどの小さな点では数が

知れているのだ。

例えば、無意識の発見と言われる

精神分析心理学のフロイトとユング

の学説のあまりな相違にそれが現れ

てもいる。性のリピドーとオカルト

には開きがあり過ぎる。彼らは無限

の中から自己追及の突き当たった

一部を掴もうとしたのだろう。

それをまとめようとして、どうにも

おかしなことになったと、そう見える。

そこへ行くと科学は多くの研究者が

同じテーマで実験をくり返せるので、

一度の人生とは比較にならないほど

の進歩・発展が期待できた。

そして、概念の代表のひとつである

数学を使って表せたので、それは

現実とつなげる時に時間はかかるし

実際上の困難はあるとはいえ、一応

の現実化に成功して大きな成果を

見せた。ただ因果はすべてにおいて

の律なので例外がない。ニュートン

の万有引力説も200年くらいですべて

の物理が説明できないことがわかった。

それどころか、現実に近い理論が

現れると、それは膨大で長期の実験

で量子力学など確かめられたが、

粒子の動きは常識な頭では理解でき

ないものになった。高温だったか、

特別な状態になるとその粒子は

同時に二か所で存在するようになる。

それが宇宙の果てにもなる超長距離

でも変らないから、重力と時間など

無視した行為だった。アインシュタ

インはそんなことがあり得るはずが

ない、と反対したが、実験はそれを

確率で裏づけ続けている。もはや

証明といっていいほどの数に上って

いる。


僕らは心の探求から始まって、途中

で神に頼らなくても「もの」を加工

して文明を築くことを覚えて、急速に

心の探求からは遠のいてしまった。

物理科学・最先端の天文物理は宇宙

にここん処、従来の理論が裏切られ

続け、まったく正体のわからない

ダークマターなる宇宙暗黒物質を

認める方向で研究・思索を続ける。

昔のエーテル説は消えたが、似た

ような物質を想定せざるを得なく

なっている。

ブッダがナノ技術にも使われるとん

でもない天文学的数値は作り出した

らしいが、ネット社会は予想もしな

かったように僕らは僕らの都合だけ

でわからないまま営為活動を行って

いる。

それらは今までの知識と技術の恩恵

で農業・水産・政治・経済など衣

食住を満たすための営為である。

知識は本にある。その他の記憶媒体

に詰め込まれている。だが、誰も

その人間社会全体の方向性には目

を向けていない。

それを様々な方面から特殊な専門

分野からで警告を発することはある

が、それは時間の経過にもみ消され

てしまう事案でしかない。

僕らの錯覚はこれまでに確かな知恵

と工夫で文明文化を築いて、知識

と技術で地球をコントロールして

きたので、これからの困難も乗り

切れるはずだし、そうするしか方法

はないだろう、と考え、それを誰も

がそう考え、信じ切っている点だ。


植物の細胞には例えば、根が切ら

れると、その側の細胞が根に変化

するという。そういう不足した

ものへ変身する要素が12種類

くらい細胞内に用意されている、

という。これは動物にも遺伝子

などを見ると似たような要素が

あり、僕らヒトゲノムの数の

多さと複雑さと、またまだ現役

で使われていない遺伝子の束が

余っているのを見ると同様に

そうではないかと想像できる。

・・・・・・・・・・・・・


僕はそこから有効に未来を補填

(ほてん=不足を補う)する考え

が導けない。いくつか説などあ

るからそれを演繹してみるのだが、

あまりに選択肢が多い現実を見る

と、またいつもの”出来事が起きて

から人は考えるのだろう”に落ち

着いてしまう。

個人ではもがきながらもその人

の道はそれなりに道筋をつけられ

るものだが、それは自分という

設計図に照らしてその反省からだ

からできるのだろうが、人類とか

国際事情とかになると、危なかっ

しく思える。

そして、その思惑が自分の知性

自身に拠って起こされる不安から

来ているのだと知ると、考えは

止まる。

危ないのは、自分の考え方が偏向

し始めたからだ。そして、それは

誰でも避けえないと思うと、公正

な論議をすることが、それを公正

さに限定しても別々な人間である

僕らという前提を思うと、いかに

難しいかに考えが及ぶが、また

そこからそれは試してみてから

反省することだから、初めから

考えるべきではないとも思う。

そうして、思考は初めに戻り、

中断してしまう。

僕らはそこで求められるのは、

おかしな考えだが、超能力じみた

感覚の必要性だと。

例えば、未来を見るには、それは

短時間の近未来だろうが、過去と

未来に関して正しい感覚が必要で

ある気がする。

西丸震哉はトラに(インドで?)

出会う、少なくとも5m手前に

姿を見る前に直感的に気づかなけ

れば命は危ない、そういう密林

などの場所に入るにはそれくらい

でないと入ってはいけない、と

超能力志向のようなことを書いて

いた。その感覚が嵩じて鋭敏に

なると、その手の直近の未来が

見れそうである。

これは確実の問題ではなく、そう

いう範囲の感覚がないと、僕らは

危険を察知できないということで、

僕らはそういう話を昔から知って

いる。

しかしながら、それを察知する

感覚はいい加減な面もあり、100%

ではないだろう。それはいつまで

も人間の微妙な感性に任されてし

まう不確実性にとどまるものだと

いう感じはぬぐいきれないのである。

そうであるから、僕らはほとんど

の微妙な曲がり角を曲がり切れ

ないのだろう。

天才の遺産というものはその人類

の欠陥をどう発見してその情報を

繋いでゆくかに見える。道はいく

つかあるから、それに適した人が

自分で見つけるしかないのかも

しれない。

無責任な言い方だが、これまでの

歴史でそういうものが紙の上に

書けるような知識の形で示された

ことはないように思う。それなら

今でもそれが教科書として何千年

も、現在も有効に使えたはずだから。


この世も、また意識や宇宙などを

含んだ世界というものは人間に

わかりやすい直截な言葉にはなら

ない。

それを伝えたり、教育で取り上げ

るのは、その人次第、マンツー

マンなのだろう。

ホモサピエンスと何万年も?共存

していたネアンデルタール人さえ

絶滅してしまった。人類の種は

化石からだとこれまでに26種類

くらい生まれたが、残ったのは

現人類の1種だけだ。これが幸運

なのか、必然だったのか、誰も知る

由もないだろう。


もう3時か。秋の夜長も長過ぎれ

ば、     10. 7 

長くなったので、続きがあるか

わからないが、またにしよう。

          10. 8
nice!(5)  コメント(0)