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君の飛ぶ空はどこにあるのか [飛ぶ]

僕らはたいして考えずに苦しむ

のが上手だーーーーーー。<発達

障害やHSPに近い人は読むのを

遠慮しましょう。>



人がものごとを確信する時は

ある。いくつもそういう瞬間を

通って来たから知っているが、

それはなにかに集中して、そこ

に突き進んだ結果得られた成果、

というものではない気がする。

もっといやらしい背景が僕には

あって、それが歪んだ鍵を握っ

ていて、運命を、しいては人生

を歪ませている気がする。

そして、それが正解でもある、と。

なぜなら、性格が歪んだ運命なら、

人生もそれに沿って歪むのが正し

いはず。だからと言って、本人は

少しも歪んだとは感じていない。

その歪みに沿うことの方が難しい

と感じているようだ。そして、

それを直覚することができないと

も思っている。いつも自分の想定

外に自分を運ぶのを常にしている

からだ。言っているのは、天邪鬼

な性質のことである。


エンゲル係数が高い。学校で習っ

たように生活費に含む食費の%が

高ければそれだけ貧しいと言える。

借金もするし、金利も高いので

すぐに危険な状態になる。生活の

経済的危機なのだが、それさえも、

追い詰められるようになるとなぜ

か腹が坐って来る。

解決はお金を作ればいいのだ。

始め、その方向に頭が動くが、それ

は簡単な解決策に落ち着く。手っ

取り早い方法を求めるからだ。

しかし、その期限に近づき、いよ

いよ切羽詰まって来ると、ひょっ

こり顔を出してくるのはその危機

迫る状況をなめまわすようにして

遊んでやろうという、もう一人の

自分だ。

彼はそういう機会を逃さないかの

ようで、むしろ待っていたのかも

しれない。困難が重なって息も

苦しい状況を想像するが、それは

自分というもう一人の状況であっ

て本人の素(す)はそれをある意味、

楽しむ機会と捉えるのだ。

これは性(さが)と言うか、癖

のようなもので、たぶん、個性と

いう意味で本来のものなのだろう。

ここまで来たら、苦しい自分に

頭を突っ込んで、そこからどう

するかを考えようというつもり

なのだ。

なぜそうなるのかわかる気がする。

それは滅多にお目に掛かれない状況

だからだ。土俵際で俵に足が掛かっ

ている、そんな瀬戸際。

と思っても、それは自分という限界

であって、想像の内であって現実で

はない。現実はそれに向かう力に

比例してその姿を披露してくれる。

気の弱い者は眼を閉じたり、見ても

認めることができない。それが僕ら

の心理的限界だ。

すると、発想が逆転する。その悪い

と思う、例えば車を失うとかを現実

として、その後のことを考えるよう

になる。

それまでは失ってはいけないと思い

込んでいたが、失っても生活は進む

し、なにかが好転するかもしれない

と、考えを広げることができると、

かえって取集選択する余裕が生まれる。

そうして行った判断のほうが失った

らと恐れてする判断よりも客観性に

勝っているのは感覚でわかる。 

ここまで来るとやっと平常心らしい、

落ち着いた自分が現れる。ピタッと

精神が決まると言ったほうがいい

のだろうか、空気が引き締まる。

そして、なんか面白いことが始まる

んじゃないかと、胸躍らせるので

ある。これは第三者が見ていたら、

まずバカに見える、笑。

逆に、狂人はへらへらしていると、

なるほど馬鹿に見えるが、狂人だ

と知らなければ、わざとへらへら

してるんじゃないかと余裕にも

見えるのかもしれない。

だとしたら、今の僕は狂っている

のかも、少しおかしくなっている

のかも、と言えないこともないの

かも、と。


エンゲル係数が高くても、日本で

はまともに食事ができる。栄養と

おいしさを考えて食事ができるの

は、実際貧しいとは言えないだろう。

始め、車がなかったら不便だし、

運転は好きだから継続を考えたが、

車を持つかどうかは選択の問題だと

わかる。気持ちが切り替わっただけ

だ。少し前まで、なんとか車を維持

しようとしていた自分が可笑しい。

なるようにならなければ、なるよう

になればいいのだ。そうすると、

そのメリットとデメリットを比較

する考えに気が向く。正しい判断が

前もってあるのではなくて、そう

いう判断ができる自分がまずあるか

どうかが決め手なのだ。

そうすると、この苦境?をもっと

深掘りして楽しめないかと余分に

考えたりする。そう考えることが

もう、楽しんでいる一部になって

いる。人はよく遊ぶ動物だ。

それで手っ取り早い解決法はまだ

あとに残しておけばいいとわかる。

すぐに解決しないで、なにか新し

い手法を編み出して、その工夫で

解決できたら、素晴らしいと思う

わけだ。手っ取り早い解決法が

最後にやってもうまくいかなかっ

たら、と考えるのはそうなった時

でいい。それまでにいろいろと

試すことができるのだから、それ

をするのが人生の、生活の有効な

使役ではないだろうか。

金がない、その発想はどこから来る

か。それが根本の(実はその一歩

手前の)誤解であり、思い込み・

先入観による問題なのであるが、

それが見えるようなら無駄な気苦労

はしていない。


人の心理的限界は上下にあるように

思う。子供の頃に命の危機になるほど

貧しさを経験すると、その反動で

金持ちを目指す。この時すでに囚わ

れた自分の心理には気づいていない。

大抵、そうして大金持ちになるの

だが、貧の反動が動機なので、どこ

かで転落するのだが、勢いで強引に

やって来たことを自分では認めて

いないので、転落は夢のことだと

思っている。そして、大破産する。

しかし、そこまでの手腕が鍛え

られているので、大半の人は取り

戻すことが多い。これが上の話。

下は、それほどの貧ではないの

に、先進国だと周囲を見て自分

が酷い貧困にいると思い込む。

そこに囚われると、情がからん

で、よほど恐怖から不安に襲われ

る。盲目になってしまうのだ。

それを飢えた状態というのだが、

これは大金持ちの傲慢さがピーク

に達した時にも似ている。色合い

が違うが同じ飢えだ。

その状態にならないと、どちらも

僕らにはわからない。実際、それ

は病気のようなもので、病の経験

はその苦しみの経験の下でないと

実感はない。

日本で落ちている曲がった釘も

見たことはないし、それをバザー

で売っているのも見たことはない。

が、今日の食べ物しか考えられない、

という状況がこの世界にはあるのだ。

拾った釘を売ろうとするまでの、・・。

それを知っていると思っている。


それは僕らには無関係だ、まったく、

全然だ。が、それを知らないことに

は気づけないでいる。気づく必要が

ないほど恵まれた環境にいるという

事実を知らないからだ。


鎌倉や 

お先 真っ暗 

ああ 鎌倉や かまっ暗や

足元の ダイヤの鉱床は 

源氏ボタルの

夢の 中


僕らに衣食住をもたらしてくれ

るのは、周囲の他人・知人である。

僕らの意・気・情を元気に活性化

してくれるのは、精神や心の知恵

と協力と創造・愛情である、他人

や知人はそれを起こす手助けをし

てくれるが、手助けしかできない

のだ。それ以上は恩着せがましい

のだが、それを求めるのも誤解か

ら生じた善意の同情・憐憫である。

調味料は必ず必要だが、腹を満たす

のは主食である。しかし、情という

調味料は死を前にして、主食の役目

も果たすようだ。何に満足するかは

条件付きでその時、またその人次第

でもあるようだ。ーというように

書くのも(読み手の想像に任せる

ことだから、)曖昧で誤解を増やし

ているのだと気を回してしまう。


羚羊(かもしか)や 

ああ 羚羊(かもしか)や

それかも これかも 

これしか それしか 

ああ なんのこっちゃ  笑


どうして真実はこうも意味深

なのだろうと思ってしまう。

ひとはそこから一つの原理や

理屈を取り出してくるだけで

満足してしまう。もしも、一つ

それを見つけたら、それには

必ず複数の反面が無数に存在

する。大きな側面でもいくつも

あるということだが、なぜか

人はそこを拡張・演繹して自分

から見た世界として、それをそれ

でまとめ上げてしまおうとする。

そして、それを枯渇させて、骨

抜きになったものにしてしまう。

哲学という分野がそれだ。


スルメは僕らのおいしいいものに

加工された価値という食品になる

が、いかせんべいとかにもなるし、

だいたいスルメを見てもそれだけ

で、イカが海面を10mも滑空する

など想像もしないし、できない。

それは知識をどれくらい倉庫に

持っているかという量の問題では

ない。倉庫に入れる前にはどんな

生きたものであったか、どんな

生きた事実であったかという「もの」

・「こと」がそこにはあるのだ。

僕らが感動すると涙するのは事実だ。

どうして感動するのか。厳然とした

事実は何を語るのか。

生きたものは死ぬと保存が効かない。

それの本当の意味は見過ごされて

いる。知識は死んだものだ、概念の

死骸になる。本や情報から得るもの

は知識としての言葉ではない。


兄、 語らんや 

豈、 図らんや 

図々しくも  はかばかしくも 

そして バカバカしくも 

聞く耳 持たんや 

リニア モーターカー 

乗ってみたい

ソニア  誰?

「罪と罰」を書いた 

罪びと(自分)だったドスト

エフスキーは 

人の心は広すぎる、もう少し

縮められませんかね、と言った。

他の人はこう言うだろう、世界は

ひろすぎる、宇宙から、植物から、

微生物から、言い方のあれこれや、

考え方の柔軟さや、スカートの襞

の色合いや、格式のどうのこうのや、

屋根の作りの具合が・・や、電気や

光のエネルギーやら広すぎる、・・

あれやこれや、と。



僕はWaiting、待っている。これ以上

はどうにもならない状況を。もしも、

そういう状況が存在するならば(ない

と思うのだが)、それは僕が唯一

期待できる、まったく新しい出来事

に遭遇することであると思う。

それに適応できなかったら、死を

覚悟しなければならなくなるかも

しれない。それはまったく、まった

くだ、楽しくなく、心を苦しめる

事であるのは十二分に承知している。

わかっているのだ、これまでのこと

で、僕は自分を捨ててきたから。



人間の生物としての寿命は55歳

くらいらしい。そこから動物はすぐ

に死に、老後があるのは人間だけだ

という。それはあとにして、僕は

とっくにそれを生き抜いてしまった。

こんなに長く生きてしまうのは、

計算違いだった。

たぶん、多くの世間と異なるのは、

僕が死をよく認め、恐れながらも、

それを懐かしむと思えるほどに

親しい、愛着さえあるという感覚

を持っていることだろう。そうい

う死を恐れない少数派なのだろう。

だからと言って、好きな冒険でも

無理な冒険はしてこなかった。

精神の崖から飛んだことは4,5回

はあったと思うが(死ぬことが目的

だったことは1回半はあった)、比較

できる人も物もないので、僕の心が

実際にどうなったのかは、今も判断

できない。

ふつうに生活している。鳥にエサ

を撒いたりして。



また、ここに もどる 

< 僕は どこに いるのか > 

君は ここに いる 

そうか 

君も そう 想うか


聞いても 

触れも せで

見えない 世界で

空を 

飛びたい 

飛んでみたい、じゃない 

飛ぶんだ

(こんな危険な気持ちはない。。

体の胸からはみ出て外に出た

感情だ 。。

高層ビルから飛んで、夢で見た

ように地上スレスレで滑空して

空に舞い上がる 。。

それができると確信する、寸前

の気持ちだ。。)



Cool down・・、

場所:  自ブン。


オホホホ  イヒヒヒ 
ウフフフ  エへへへ
オホホホ

すべての時間で 止まらない

自由があるのは 違反だろう。

少し、コマを回して時間を潰そう。

カラフルなWay、

単片な緊張、 そのワンダリング、 

止めてみて カワウソの 散歩 

家出少女の 決心 


そのバックドアの キーを回して 

ホ~ ム 

その手紙を 取り上げて 

今 読んでよ 

なつかしい 汽車に  乗る前に 


・・・・・、バ イ
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