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生活の常識と鍋や料理からチラリ見えるもの [常識]

書くことの結果を遠方に求めると、

すぐに行き止まりそうな街に入っ

てしまって、書いても無駄だな、

行き止まりだと思ってしまう。

僕がそうしていたら、ブログを

書くということは不可能だった

に違いない。

例えば、朝起きて、今日はこうなる

のが予定だし、そう期待してその

予定通りにならないのは、誰でも

数日の日常経験でわかってしまう。

それはものごとのすべてが未知数を

抱えて動くからだ。外でさえそう

だし、自分の体でさえ、どこかで

怪我をしてもそれが普通なのだから、

朝起きて僕らはそれらを考えない。

うまく行かないことも多いと

わかったからと言って、会社を休ん

だりしない。営業ならなおさらで

昨日の成果は今日に期待すべきでは

ない、と前もって知っている。

生活はこのようだ。

これが正しいのは、皆がそう感じ、

そういうように無意識を装って

生きるからだ。朝起きて、ダメだ、

寝てようと言えるのは引きこもり

か、定年で退職したか、そういう

毎日暇に過ごせる人たちだ。

僕らが考えるのは生活上で家庭や

職場、仕事で何かあった時で何か

なければ考えない。または人生上

でなにかがつまづきになって、

自分の意向と衝突して、抵抗が

生まれた時だ。理解しがたいことが

起きていると、それは理解できない

から抵抗なので、自分の精神と心に

自分という主義や主張・思考・思想・

意志という方向性に道を譲ってくれ

ない、相手が認めてくれない、という

ことで起きる。

ところが、僕らは時計を見るように

ありもしない時間をそこに求める。

カレンダーを見て、去年と同じ日付

を見るが去年と同じ日ではない、と

はあまり意識しない。それは毎日し

ている習慣で、様々な言葉や記号も

自分の知っている意味は人も大体

同じ解釈だと思っている。そして、

誰もが不特定な多数の相手に対して

「思い込んでいる」事項だとは思っ

ていない。自分の(とは思ってい

ないが)常識は他人の常識だと

当たり前に思っている。そして、

異なっていたりすると、あいつは

おかしい、怪しいとなる。常識を

知らなすぎる、とかなる。


多くの一般人は自分の常識はほぼ

他人の常識でもある、例外はある

だろうが、くらいの範囲でしか

考えていないが、平均に均(なら)

すと、それは逆に近く、お互いに

常識を誤解している面があって、

それがバラバラで年代よりも

自分の経験に拠る社会経験が重く

ウェイトを占めて、その気持ちが

異なればそれへの考え方も大きく

違って来るものだ。その経験に

対してその人自身の性質や性格

を形成する強弱の傾向が、その

考えをつくるので、つくられる

常識は経験次第で大きく異なる

のが普通のことだ。

心理学は必要ないものだが、人の

心理については初歩的なことは

知っておかないと、他人の言葉を

そのまま信じるという愚を犯して

しまう。(相手は軽く言ったつもり

でも、真に受けると、後で裏切られ

たと感じるはずだ。それも社会経

験だが)

その場合でも信じる気持ちを残し

ておかないと、疑いは考えること

だから、終わりがない。疑いを

さらに疑うこともできてしまう。

その場合はどこまで信じるか、

どこまで疑うかというのは、愚問だ。

それは境界も範囲も問題次第で

なにも前もって決まってはいない

からだ。

つまり、相手の感情の重みの置き方

と思考の形成方向や意向を考えに

入れておかないと相手を間違えて

理解する、つまり誤解したままに

なる。

小手先なら「頭のいい人の考え方」

とか「頭のいい人の聞き方」という

ような表題の本を選んで読めば、

方法はいくらでも載っているだろう。

だが、それを判断するのはやはり

自分自身だから、自分の気持ちが、

また考え方が人とどう違うか、と

ある程度は見えないと、どんな本を

読んでも役には立たない。子供が

恋愛の本や小説で恋を知ろうとする

ようなもので思春期を迎えなければ、

その体験がない限り、本は役に立た

ない。

営業をやるとそこは鋭敏になる。相性

は占いの仮想だが、それに似た現象

は「気が合う・気が合わない」という

人間関係は日常で、また映画や動画・

小説などで頻繁に見ているはずだ。

狭い範囲での社会常識というのは

厳としてあるが、広い意味での社会

常識というのは誤解で成り立って

いると思っていい。

社会はそういういい加減さを必要と

している、実質は。しかし、建前

はそうではないと言い張るだろう。

なにもかもが理解できるような

教育システムに仕立てているからだ。

でないと、ウソやいい加減を教えて

いるのか、と抗議されてしまう。

会社に会社方針や会社の標語が

額に飾られていたりするが、会社

で精神統一を必要とするのかと

考えると、不思議な気がする。


自分を大切にするのが最も難しい。

自分を守るだけだったら、僕らは

多くは保身に走るから、本能的に

はできている。だが、教育で思想

という風を吹き込まれると、特に

子供時代には経験不足で、ある程度

の正鵠を得る判断ができない。

思想に染まるというのは洗脳され

たという意味で間違いない。子供

時代には最も知識を取り込むこと

と人間のためにあるのではない自然

環境とつき合うことが重要になる。

暴力とつき合うのは危険だが、軽い

暴力には接しておく必要がある。

それが何をもたらすのか、ある程度

の指の一本を失うくらいの痛みには

慣れておいた方がいい。軽いボクシ

ングで突き指する程度だろう。

中学の先生は登山で肉が見えるほど

の怪我をして、自分で縫い針で傷口

を縫い合わせたと自慢していた。

山だから、麻酔なしで。

人は自分が得意なことを知っている

から、そればかりに傾きがちだが、

自分が不得意とか嫌いだなと思う

ことでそれが未経験であったなら、

一度試してやっておく方がいい。

僕は料理をして、はまって中国から

フランスに渡ろうとして(料理の

国名だが)、はっと気がついて、

和食の基本に戻ったりした。

それらは塩が基本で、塩味の加減

がわかると、他の調味料も加減が

わかってくる。あとは焼いたり、

蒸したり、煮たりだけなので、

その時の材料の調理の順番が

わかってくれば、あとはそれらの

様々な統合なのだから、魚の

下ろし方も必要で、ともかくそれ

らをいろいろなトーンで合わせて

自由に料理すればいいだけなので、

冷蔵庫を開けて、残り野菜や

その他の材料を見れば何ができるか、

すぐに想像がつく。

ともかく面倒くさがり屋なので、

メインは30分以内でつくる。

材料は登場人物で、鍋や器は

環境、どのタイミングでどうする

かはストーリーを組み立てること

で、僕は料理は小説を書く時の

要素によく似ていると気づいた。

事実は小説よりも奇なり、という

言葉のように、生活は小説より

奇妙だ。こんなことという小さい

ことに取り組んでみると、意外

なことがわかる。

僕らはそのように事実と仮想の

言葉との間でそのギャップに葛藤

している。経験したら、自分で

よくよく考えることだ。出た結果

に自分の気持ちを切り替えるのが

最も難しいと思う。

例えば、先進国西洋人は神から

人が作られたことに満足している。

だから、人の祖先が猿であるのは

未だに納得しがたいことなのだ。

白人主義はいろいろに思想の形を

変えて、その裏に隠れて、・・

・・・・・。

心に隠されたものは誰もがそれ

知るのを嫌うものだ。僕らは無自覚

に自分を知りたくないと思っている。

自分をわかったつもりにはなりたい、

プライドで。しかし、そこまでは

知りたくない、という見えない、

聴こえない、届かない自分がいる。

そこが第一の問題かもしれない。


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