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自由でない僕らはそれでいい [自由]

自由になりゆく自分がいる。

それでそのまま何もしない自分が

いる。

自由は僕の目的なのだろうか。 

考えてみてくれ。君の自由は

君はその自由を認めないで、

自分はつらいと思っている時に

自由ではなかった、そうでは

ないのだろうか。

今もそういうつまづきは、どこ

にでもある気がする。でも、

つまづかなくなったのだ。

進歩したからじゃない。退歩した

からだ。自分を実現とか、発展と

かを見捨てて、後退するのを選び

始めたからだ。後退するのに

ためらいを覚えなくなったからだ。

必ずしも進歩する、先に進む必要

はない気がする。その理由は思い

もしないが、それを考えなくて

いい、そのようにあまり進まずに、

ほぼ下がってしまう。下がっても、

以前のそれは脅威を感じていた。

昔のことになってしまったが、

それもここ10年くらいのこと。

それ以前のもの心ついてから

半世紀近くの長き間は生活や希望

はレベルアップすべきだと思って

いた。

結婚や子供、家と教育費が降り

かかってくる世代はどんな反省も

する暇はなかった。レベルアップ、

それが世間の思惑で自分がそれに

従っていただけで、皆が生活する

目標で生きるのが当たり前だとい

うこと、それを疑いもしなかった。



そこには明らかな仕掛けが施され

ていたのだが、僕らはもっと大きな

網が国際規模で仕掛けられて、その

地方である日本、その中に居るので、

その一部を見破っただけでは偏った

批判しかできない。直接、的(まと)

に当たらない批判をしてもただ疲れ

て行ってしまうだけだ。

そうして世間は小さな重大事件に

巻き込まれて、全体を見る視点を

失う。社会全体を見る視点は個人

でそれを実現するのは並大抵では

できることではない。

その知識はすべてであるから調べ

れば、そして、詳細でなくても

その大方の本質を感じるまで、

知識を経験で陶冶できれば、誰で

もそれを知り得る。

しかし、誰かそれをするだろうか。

自分の生活を時間をかなりそれに

つぎ込んで、自分という人間心理

が経済や政治、それに少し隠れた

その関連の思想が裏打ちする格好で

本来のその思想とはズレて支配して

いるのを見る。見えるが、それが

なにか、その正体に気づくだろうか。



そういう行動に出るだけでも、かな

り激しくも強い動機付けがその人に

必要になるだろう。

忙しいという時間のこと、そう思わ

せられている社会の労働への産業

構造とその価値体系のこと。言うは

易しい。

朝に目が覚めて、同じ部屋にいる

のでまだ自分(存在)は継続して

いると思う。そして、現実の世界

が存在しているのを確信してしまう。

なぜなら、生まれた時から知らずに、

また知るようになってからも世界

が続いているのを一万日以上も

見続けているから、そう考えるの

が習慣になっている。

習慣になったことに気づけない。



大昔でもないが、太陽も月も空に

昇って西に沈んでゆくのだから、

この大地を中心に日や月が回って

いると考えて信じた人たちとそれ

は変わりない状況だろう。

大地が丸くて宙に浮いていると

いうのは、地上で浮くのは煙とか

くらいなので、重い大地が浮いて

いるというのは、非常識(非自然)

な考え方だった。

これが僕らが自分の状態を中心に

日常の経験に比較して結論を出す

考え方のすべてというもので、それ

は自分の地方・地域の状態に固執

している。

囚われているのだが、僕らは自分

を離れられない。夜に睡眠中に夢

を見れば、自分が働いていない意識

がはっきりしない状態だとわかる。

夢は支離滅裂だから。

なので、自分を超えたりすること

はないし、無秩序という恐怖だと

思うから、試すこともなく、ます

ます自分に固執するのが我々なの

だ。

また僕らの自分は自分の面での

良いとこ取りをする自分に逆ら

えない。そこでは無秩序とともに

狂気があり、おかしな認知症もど

きの向こうには死がいる気がす

るから。だから、自分に脅され

ているとも気づけずにいる。

自分が自分を縛っている?いや

そんなことはない、私は自由に

やっているよ、と。


ある盲目の夫婦のことが印象に

残る。それまでの経緯はわから

ないが、長男が一人、その子供

だけが一人いて、その子がよく

できた子で働いてその夫婦を支え

ていた。

ところが、夫婦は息子に感謝の

念を表すことがなかった。私たち

の子供なのだから、当然、目が

見えない人を助けるのは当然、と

いう態度でかなり好き勝手に暮ら

していた。

それを聞いて、TVを見ながら驚い

てしまったが、盲目の彼らにとっ

てはそれが常識だとでも言いたい

考え方で、彼らは正しいと思って

いただろう。その考え方の上で

自分たちは自由に暮らしている、

と思っていただろうし、子供も

それで当然と、親の世話を喜んで

いたようだ。

夫婦はただ盲目なのではなく、

心の想像力でも盲目だったのだ

ろう。子供の稼ぎが悪くなった

りすれば、子供に文句を言って

当たるのは眼に見えている。

子供が例え、幸運にも裕福に

なって親の面倒も人に頼める

ようになっても親の老後は

とても楽しい晩年と言えない

悲惨な結果があるだろう、と

いうのは想像でも想定内だ

ろう。

それが悪く出て、子供が過労で

倒れたり、結婚もしないで病死、

事故死とでもなったら、その夫婦

はその悲劇を息子の所為にして

もっと悲惨な晩年を迎えるだろう。

それがどうなったかはわからない

が、彼らは与えられた自由に、

それが普通は与えられないもの

だということに気づくべきだっ

たろう。少しでも感謝すれば、

三人での幸せもあっただろう。



今、自分が自由であったのなら、

たった一人で自由な境遇という

のは社会生活を営む上ではない

だろう。何か枷になってあなたを

制限する、それに気づかないこと

がその中で自分は自由だと感じら

れる条件である。

だから、盲目の夫婦が自分たちは

自由だと感じていたとしても、

また僕らが世界の他国とは政治体

制も異なり、法律や掟・文化も

異なり、その中での生活で自由に

やっている、と感じているのも

同様なことで、間違っているの

ではない。



ここでAI のことになるが、AI が

人間の仕事を奪い、職種が少なく

なり、就職難になるのではないか

ということが騒がれ出した。

AI の学習能力は優秀なので、人件

費が会社の諸経費で最も嵩むので

あれば、それを削るのが手っ取り

早い。それは昔ながらの効率や

損益の大小を比較したもので、

ただの計算だ。

昔もそうだった。機械が発明され

て、やれやれこれで人間様は楽が

できると喜んだのは束の間、競争

相手も同様に機械を導入するだ

ろうから、従業員は楽ができる

どころか、倍に働けと言われ、

給与もさほど上がらず、ひどい

処は機械を導入した分、従業員

の首を切った。

そういう環境が支配しているの

に僕らは気づいている、知って

いると思っている。が、それに

ついてなにかを正そうとはしない。

それには自分が浸かっている環境

が大き過ぎると思っている。

自分の生活が脅かされ、死活問題

にでもならない限り、その方向は

避けて、守りに入ってどうにか

しようとするか、普段考えるのは

そう落ちぶれないように格差の

上の階級・レベルの生活をしよう

と思う。それが常に資産や金銭の

ことになる。

誰もがそう気づけばおかしいのは

わかるのだが、少しの反省でそこ

から先を考えても仕方がないこと、

となるようだ。だから、今の生活

に埋没するのではないだろうか。

今がよければそれでいい、という

のは廃れない真理だろう。

だが、その全体にバランスを整え

られるほどの生活力や支えてくれ

る環境やもの・人とうまく交流し

てそういう関係を築いていること

がその前提条件だ。そうでなけれ

ば、盲目の夫婦と社会一般となん

ら変わらないだろう。



そこで提案だが、僕らは個人の

勝手な自由を満喫しようとする

だろう。それこそ僕らの自由だ

ろう。

しかし、もうひとつ、環境・人・

物への調節ができるほどに周囲

へのアンテナを広げ、それらへ

の気づきが遅れないように時々

はその世界と人生においての位置

という精神のバランスを取るべき

だし、その上での僕らの実生活

ではないだろうか。気づきから

目を逸らせるべきではない。

AI や量子コンピュータは人間性

たるものを備えていない。それは

誰かがそこに指示を与える、その

人間の自己がそこにその人の自分

を植え付けるということで、その

思考や思想を発展学習して、機械

は一部の主張とは気づけずに、

人間を支配しようとすることは

起こっても不思議ではない。

機械は感情の会話を真似すること

ができ、相手を篭絡するための

1億通りの説得の言葉を記憶も

できるだろう。それは言葉巧みな

詐欺師の言うことを信じてしまう

僕らが、その会話に取り込まれ

てしまうのにも似ている。

しかし、それはもとはと言えば、

ある個人の技師とか教授などの

考え方が根本・中心としたもの

であり、その上での感情である

から、決断の事項に入ったなら、

平気で2人を殺して1万人を救う

という計算をするだろう。

それは計算上、正しいが、時には

そうせざるを得ない時もないわけ

ではない。その時、人間なら、矛盾

した問題に突拍子もない解決策を

思いつくことはあるだろうが、

機械には1と0で超高速で計算する

ことしかできないから、状況を跳び

超えるという、発想の飛躍ができ

ない。

それができるのはどんな超高速の

コンピュータでもない。感情や僕ら

の感覚から生まれるものは、知性の

一部ではない、不完全ながらも

時にその時の完全な正解をはじき

出すことがある超意識とか無意識

とか未知の感覚なのだ。人はそれ

を奇跡と呼ぶ。が、奇跡ではない、

それはあまりにも自然の自然な

一部なのだ。

それは僕らの思考を、感情を、感

覚を協調・妥協させるほどの熟練

という心の成熟だと思うのだが、

・・。

それはそれぞれの人のおかしな

個性とも協調する道を見つける

だろうに。だから、行き着く先が

君子だとか聖者だというのは、

自然を無視したいい加減な話な

のだ。僕らは僕らでいい。



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