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あるあるノーベル経済学賞 [経済学]

今日、女房に人生で初めて言った

言葉があった。

「ともかく喋りたくてしょうが

ないんだよ。自分でも嫌になるん

だが、止まらないんだな」

ともかく、TVを観ながらでも、

その感想や意見を自分でも邪魔だ

と思いながらもべらべら喋る。

結婚式から半世紀近くになるが、

これはうちのと緊張関係が少し、

破れて僕が優勢になったせいも

ある。

また、体調の不調が回復して

好奇心も復活して、DVD・漫画・

この世の本の全般・国際ニュース・

諸々に興味が湧いてしょうがない

という状態だからだろう。

うちのは昨日、自転車に乗ってい

て同じ自転車同士でぶつかって

足の筋肉痛になっている。

今晩は卵と豆腐とチーズで以前か

ら僕がそのうち作るといって、

作っていなかった料理を晩の

おかずにした。晩飯とかは20年

以上作って来た経緯があるので、

まず30分で作ってしまうし、

そのレシピも記憶に有り余って

いる。その気になれば、と言っ

てもならないが、料理の新作も

作れるだろう。

フランス料理に入ろうとして、

いや和の食を固めるべきだろう、

と引き返してしまったが、少し、

やっておくべきだったとは、今

わずかにだが、後悔している。

調理もやりたくて始めたのでは

ないから、そこまで懲りたくは

なかった、当時は。

なんでもやっておいて損はないと

いうのは本当で、長い時間のあと

にならないと本当の結果は見えて

こない。

それでも僕が学校の勉強は嫌いで

してこなかったのは、正解だと

思っている。今になれば、なにが

勉強したいか、見えるからだ。

そして、それは学校で教わる体の

ものではなく、僕の視点から本や

資料からの情報を選ぶべきものだ

からだ。

今日も今日で、海老名文化会館の

駐車場を借りた関係で隣の図書館

にも寄ったのが偶然なのだが、

ノーベル経済学賞(根井雅弘:著)

という本を読んでみた。

以前、ブログでその経済学賞そのも

のを資金をもらって、なかった賞を

つくったとしてノーベル賞委員会を

批判したことがあったが、その冒頭

で同じことが書かれていた。

そして、わかったのは厳密には、

ノーベル経済学賞は存在していない、

ということだった。

いや、世界で、日本でもノーベル

経済学賞として、ニュースで新聞に

も発表されているではないか、と。

その通りなのだが、それは通称で

正式名称ではない。正式には「アル

フレッド・ノーベル記念スェーデン

国立銀行経済学賞」というらしい。

これはスェーデン国立銀行が1968年、

創立三百年を迎えた時に、ノーベル

財団に経済学賞を寄せたから、それ

が加わったというように見えたらしい。

実際、スェーデンの王立科学アカデミー

が受賞者の選考に当たっているので、

通称ノーベル経済学賞となってしまっ

た。ノーベル財団の専務理事は言葉

を残している「経済学賞はノーベル

賞ではありません。ノーベルの遺言に

ない。記念の賞です」と。くり返す、

厳密には、ノーベル経済学賞は存在 していない、ということだ。

経済学というのはまだ学としては

これが正しいと言えるほどの成熟度

には達していない。それどころか、

社会の、また人の動きに左右され

やすく、現代では社会学との境界

も曖昧になって来ているように

見える。


小田急海老名駅の北側の広い舗道を

歩きながら、鳩が三羽いて、一羽

が邪魔なのにすぐ前を歩く。鳩は

鈍そうに見えるが、図太いのだろう、

エサでも貰えるのを期待している

らしい。そこで少し、邪険にして

みようかと、ちらっと僕の気が

入った。すると、1㎝くらい羽が

広がって飛ぶ態勢を見せた。気づ

いて、気を引っ込めると、鳩は横

にちょこちょこ離れて行った。

彼らも同じだ。人間とのつきあい

を過去から積み重ねた動物は警戒

心がある。

また、セキレイは気が強く、早く

に慣れ、鳩も慣れたのだろう。

だが、警戒して飛び立つ瞬間は

逃さないのだろう。ゴキブリも

同じだ。人間の動物に対抗する

狩猟の気は一瞬で確実にキャッチ

して外さない。生命線だから。

この人間の気の使い方は、まさに

殺気と言えるもので、それは戦争

の要因の一つになると考えられる

ものだが、それはまた別の機会に。



アダム・スミスの「国富論」は

経済学の発祥と言えるほどに古く、

また経済の法則の初めを示したと

思われている論だが、中身には

分業は人の幸福を奪うものだとも

書かれているらしい(未確認)。

しかし、そんなことは教えない。

アダム・スミスには「道徳情操

論」という厚い本もあって、本人

はそのほうが重要に思っていた

らしいが、「国富論」のほうが

有名になってしまった。

ニュートンも「プリンキピア

(原理=万有引力と数学と天文学

とを融合させた)」が有名だが、

本人は錬金術師で、また贋金を

取り締まる庁で働き、晩年まで

そこの庁長だった。そして、聖

書研究の神学が生涯の学業だと

思っていた。死後残された論文

も聖書関係が最も多い。

人は自分がこれだと思ったもの

ではないもので、有名になったり

する。その人の本意ではない、

それが人生だったりする。

とかくイメージは先行しやすい。

それがマスコミや広告媒体などを

通じて知らされたものは信用なら

ない。

ところが、反対に初対面の人に

対する第一印象はまず外れない。

しかし、その人次第で後天的に

自分で学習してその(多くは)

欠点をカバーするから、付き合う

うちに悪い印象が薄れる。

それはその人が緊張しすぎたり

すると、急に第一印象の正体が

現れる。

見せられたものは仮面でイメージ

で、無心に見たものは真実である

ことがこの世では反対に逆の様相

に見られることが多いようだ。

これは誰もがなんとなく知ってい

る、身に覚えがあることだろう。


簡単な事って 

つまらない 

へそ曲がりは わかりきったことを

どうにか 難しく考えて

それを 謎として

謎解きを 楽しもうと

するかのようだ 

・・・



変人が  増えた  ・・笑

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無手勝流でも亜流はあるか [無手勝流]

昔、無手勝流という流儀が

あったそうな。どんな格闘技

か、剣技かは知らないが、その

発祥は塚原卜伝らしい。

小舟の上で決闘を申し込まれた

卜伝が船を陸につけて、そこで

やろうとか言って、相手を先に

陸へ上がらせて、すぐに竿を

さして小舟を陸から離した。

これが無手勝流(卜伝流)、

戦わずして勝つ、と言ったとか。

兵法の一種でもあろう。そこか

ら武器を持たず、平手で相手に

勝つ工夫を無手勝流と言われた

とも。

これは前もって用意していた

戦法ではなく、その場での思い

つきが大勢だろう。真剣勝負を

していた時代だから、その場を

生き抜く工夫は気持ちから怠ら

なかったのだろう。

なぜこの発想になったのかと

いうと、パソコンの前に坐った

からだ。書くためだが、その

準備はできていない。なので

逃げてばかりだ。なんやかや

理屈や小細工の出来事を並べ

ているうちに気がついたことを

書き連ねてゆくのだが、99.9%

失敗しない。なにか気がつく

ことはあるだろうから、それは

当然に見えるが、実際は飛び込み

営業のようなもので、売れるか

売れないかは、その時に出会った

相手とこちらの営業トーク次第。

相手の反応を予想した受け答えを

想定したトークを覚えているから、

営業マンには素人は敵わない。

この、書くというのは意識した

ことはなかったが、営業トークを

するのに似ている。ただそれは

決まったトーク、覚えればいい

トークがあるわけではないことだ。

誰でも書くことがすぐに浮かぶ

わけではないから、どうしても

花言葉とか、辞書からとか、誰

かの詩篇からとか1年くらい続け

られる題材を選んでくる。

それで5~6年は続けられる

かもしれない。

なにかそれなりにテーマを書く、

というのは4コマ漫画を毎日

連載するような大変さがある。

アイディアを毎日振り絞らなけ

ればならないからだ。ところが、

それをやっている漫画家は多く

いる。それが得意ということで

はないだろう。最初は苦労した

はずだ。うんうん唸ったかも

しれない。ところが、ある程度

続けるとなにかコツでもわかった

かのように、どうにかアイディア

が湧くものだ。これは偶然では

なくて、また才能でもなくて、

日々それについてアンテナ(神経)

を張り巡らしている、そういう

生活になるからだ。なんでもかん

でも漫画のネタにする思考回路が

出来上がり、それを無意識にも

溜め続ける。見るもの聞くものが

漫画のネタだと気づくのもこの頃

だ。そう、日常のことに気を配れば

ネタはどこにも転がっている。

でなければ毎日書けるものではない。

逆に僕らは日常の豊かな4コマの

ネタを見るようにはそこにあるもの

に気づけていないのかもしれない。

僕もこの年来には気づいていたが、

無意識になにかを考えていて、そう

いう時間を設けている日常だと知る

ことができた。今は毎日書く気には

なれないが、数年前は1日に数回

ブログを書きたいくらい、テーマが

浮かんだものだ。

集中というのは没頭することで、

書いているテーマに入り込んで、

周囲の状況は他人事になってしまう。

5,6年前には絶頂期だったろう、

朝になってもまだ書いていて、窓

の外を通勤の人が歩くようになっ

てから、もう終わろう、と終わら

せたものだ。4年前の詩を偶然

見たが、息の長い詩でこれは今は

書けないな、と思った。

今はうまく言えないが、方向が

少し変わって、人生や世界という

全般を扱いたいと思っているよう

だ。

そういうのが無手勝流の果てなの

だろう。自然の流れであって、自分

で決めるものではないようだ。


君よ、 知るや 

この正座に 打たれる

金槌の 雄叫びを 


なんだか意味のないことを書く

のが平気になっただけだ、と

言われても答えようがない。

詩って意味がなくてもいいじゃ

ない、と思っているのだろう、

ある部分。

直感もよくあるのは、なんでも

ない所から価値や景色のある

処まで貫いて、言葉を生むこと

だ。すれば、それを言葉に結晶

させるのが詩人といった処か。



風月は

さにもあれ こにもあれ 

にっちも さっちも 

あれ よ 忘るな 

盥(たらい) 叩いて 

百人の 一茶 ここにあり 

騒ぎ 五月蠅(うるさ)きも

旅の 醍醐味 ここに 

あり 

        :陽秋






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SAY、ハロー 朝 [朝]

昔の曲を聴くとどうして僕は

ここにいるんだ?と呟いてしま

うんだろう。

ジョンレノンが言ったように、

ビートルズは夢の中に居たんだ。

それは世界という現実が夢を

象(かたど)っていたからだ。

完成された曲から、今のように

ライブで他の歌手がカバーして

もこだわらずに聴いていられる

ようになったのは、進歩したとは

言えないが、いろいろな歌い方も

許せるようになったと思う。

こうしてこうでなきゃ、この声

でなきゃ、この歌い方でなきゃ

という枷が外れると、雑種の

動物園のように曖昧な世界に

出たことがわかる。

それは裏返しに自分の青春の

形を見る、ということでもある。

愛するということが、いかに

ふつうのことであったかに思い

至る。そして、こう思うように

なるとは想像もしなかったこと

に、サプライズのプレゼントを

もらったのではないかと考える

のだ。

現実であるからこそ人々が夢を

見るようになる、そこに音楽に

合わせて足踏みをして、手を打つ

という拍子を取る。

僕はその中でまるで膜があるよう

に夢に染まっていた。それは夢の

中からだったように、現実とは

隔絶していたとは気づかなかった。

ガラスの向こうの世界だとは考え

もしなかったわけだ。

向こうがあって、こちらがあると

思っているのだが、音楽と同じ

ように初めから和音が響いている

とは知りもしなかった。

アメリカナイズしていると同級の

誰かに言われ、とても驚いたもの

だ。それが自由の波の一派だった

のだが、そのまま自由の気風を

求めて考えを進めたもんだ。

誰かの自由な気分を真似して、

その気になっていただけなのだが、

それがポップ音楽という自由の

西洋文化の風だった。

それでも「学ぶ」という皮膚の

ように感じる意思も性質もあっ

た。大学へは自由を求め、4年間

のともかくも思索する時間が欲し

かった。そして、世界はひっくり

返った。無の世界に落ち込んだ。

気がついて、また2,3日後にまた

落ち込みそうになるのがわかり、

カーテンの模様の一枚の葉を見つ

めて、その周囲が何も見えなく

なり、それでも耐えて、やがて

瞳孔が戻るように同じ部屋にいる

自分を発見した。無は、意識しな

かったが、やはり恐怖だったのだ

ろう。経験しないものは恐れよう

がないのだ、知らないから。

これは10年後には疑問になった。

そして、それは恐怖が真に恐怖に

あるのではなく、恐怖とは実は

恐怖を恐れることにあると知る。

それは僕らの心の傷は本来つか

ないものだと知ることになる。

恐怖がなければ、不安も生まれ

ない。心の傷は自分が反射して

傷ついたと感じることから来て

いる。それは自分が認めたく

ないことを一様なショックとし

て心に刻みたいからのようだ。

それに気づかず、相手からつけ

られたかのように感じるが、

それは感情の反射によるもので、

僕らはその感情に弱い。受け止

めるだけでなく、傷の記憶とし

て、痛みを添える。当時から

そう思っていたが、そうではな

いかもしれない。うすい膜くら

いは自我が防御で用意した気も

する。その反動は人の気持ちを

無視することになるので、人間

関係で軋轢を生むことになる。

それでも自閉気味というのは

避けられずに、選択されるだろ

う。自分で鳥かごを作って、自分

でその中に入るようなものだ

から。そして、苦しみも悲しみも

遮断してしまうのだ。人はそれで

自分がメンタルで強くなったと

勘違いする。そう考えることも

あるだろう。

僕らは正解を求めて、身を正すの

が正義だくらいに考えるが、答え

を出すことと修身というのは別々

のものだと覚えていたほうがいい

と思える。

かつ丼の正解はそのレシピにある

だろうが、レシピは食えない。

食ってうまい味を覚えるのが修身

のマナーのようなものだろう。

こんな時にどうして自分は黄昏

(たそがれ)るのだろう、と思う

時の自分を眺めて、それから人生

の意味がやって来る。それまでは

未熟な自分という子供を幾人も心

に飼っているのかもしれない。



君は 

寂しがる ことは

ないんだ 

どこにもいない人間 なんて

詩の中にしか  いやしないよ 


ひとりで 坐っているつもりでも 

それは 誰かの 坐った

温かみの 残る場所だっ

たり する 


結局  僕らは

ひとりには なれない 

心は 黙っていても 

友や 憧れを 

そんな 自分の影を

つくって  君を 

慰める もの 


君は 愛する必要がある、

と 感じるようになる

いずれ 



ゆるくなる 


ゆるく 理解するようになり 

愛されたいとは 

考えなくなる 

なぜ 

こんなに 人を 

愛したいのか 

わからなくなる 

それは 君を 後押しする

ものが いるから 

だったら  もう 

生きる理由は 

探す理由も なくなり

生きようとする



それが ワンセット 

その ワンセットがあれば 

いくらでも 生きて行ける 

救われないことを 

恐れずに 



見知らぬ鳥が曇り空を背景にして

飛び去ったかと思うと、また現れ

て、長い尾を見せて翼を動かす。

そうして急に僕らは気づく。

こんな風にして音楽を楽しめた

ことはなかった、僕は世界の一員

になったのだ。

世界のハンバーガーを全部食べる

気でいるみたいだ。僕のような、

君のような、あなたのような、彼

のような、彼女のような、誰かの

ような、叫び声!?

ニセコの雨が 降るだろうか 

茶色の 滴(したた)る タワー 

電話の鳴る サンショウウオ 


君は 

OW NO!

もう 起きてるかい! 


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老後と自然の思想そして真実 [自然と人生]

36.5℃。微妙な発熱。

37℃までは熱じゃないって、強気

な女性が言っていたが、個人差で

平熱があるので、例えば、35.6℃

とかが平熱なら、1℃高いので、

熱っぽいだろう。

顔がむくむような、熱っぽさを

感じるが、静かに過ごしていれば、

一時的に熱が上がることがあって

も、すぐに収まって、体の調整も

数日で終わる。それがこれまで

だったので今回もそう変わらない

だろう。

微熱の軽いだるさは、無理ができ

ないのを知らせるので、義務感に

捕われず、好きなことをしていれ

ばいい。それは不調の中とはいえ、

それなりに幸福感を感じさせる。

思い切り集中して仕事をこなす

とかしなくていい機会が与えられ

たのだから、この1,2日は老人

を楽しめればいいのだ。

このだるさはまた、薬の所為でも

あるから、気を許して寝られるも

のなら、眠ってしまえばいいのだ。

体は具合が悪い時は、睡眠時間が

足りていても、また寝られてしま

うものだから。


老後というものを僕らは当たり前に

来るものと考えている。長く生きれ

ば、当たり前なのだと思うのだから、

そう考えるのだが、最近その老後と

いうものが生物でヒトに特有のもの

だという考えが現れて、その本が

売れている。図書館で予約して、

昨日か、借りられたのでそれに

ついて近日に一考してみたい。



僕は老化というものが避けられない

ものであるとしたら、通常に考えて、

長生きすればするほど手足や頭の

考えなどの退化・障害は進んでしま

うのだから、長生きしたいというの

は考えのない能天気な希望だと思っ

ていた。

そこで早めに死んでも、それが理不尽

でなく、無理のない自然なものなら

そこで死を選択するのは、当然な

ことのように考えていた。

しかし、技術が進んでそれがロボット

機械や化学薬品の発明であったり、手

足の代替であったり、人工細胞の内臓

の交換であったりの医療の革新や、運

動能力の更新であるなら、金はかかる

が、それも悪くはないと思い始めた。

それは同時に長い目で見れば、僕ら

が人間性を失い始めて200年は経って

いることを思えば、それをさらに更新

して、僕らは人間性を失うことに思い

至った。

科学者の考えていることは、脳さえ

残せば、あとは機械で代替が効く、

ということだ。これは数学の根本思考

とその延長である脳が主体であると

いう人間機械的な考えになることが

反省されていない。

皮膚や骨、そして最初の脳であった

腸の、脳の2倍とかの神経細胞の働き

を金属に任せてしまうということだ。

または人工のファイバーのような

無機質の無神経な代替品で間に合わ

せることだ。人間の脳が生まれるま

でにその生活の指針の役目をはたし

てきた神経細胞を無くしても、脳は

今まで通りに働くはずだという考え

がそこにはある。

僕にはそれが信じられない。睡眠や

運動には体と切っても切れない生存

のための要素があり、そこから伝わ

る感覚は地球の全哺乳動物を支えて

来て、今も支えているだろう。それ

は心は睡眠時に夢を見て心のストレ

スの軽減を図っているという信憑性

のある考えを否定するように思える。

そう言うと、脳に休息の時間を与え

ればいいだろう、という声が聞こえ

るが、問題は体の内臓などの神経と

脳神経は連動しているということだ。

その半分を取っ払って、人間は正常

なこれまで通りの思考が続けられる

か、という疑問だ。

中間を端折ってしまうが、長い目の

先にはただ人間がロボットになると

いう、これまでの常識のような当た

り前の感情、通常の感覚というもの

が働かないのであるから、そこから

失う人間本来(これまでの)のもの

があるのも当然なことではないか、

ということだ。

そういう感情なり、感覚なりが

失われるか、希薄になるのであれば、

僕らはふつうに元の人間とは変化

した、知性に偏向した人間、(今を

標準とするなら、)そういう歪んだ

人間に変形してゆくはずだ。

そうして遺伝子もそういう情報ばか

りが伝えられて、進化は進行する

だろう。僕らは微生物から植物、

動物、昆虫、ウィルスまで1000万

種以上の生物・無生物の関係で生き、

生かされている。この多様性を失う

方向を選ぶことはその多様性の関係

が不明である(これからも)ことで

危険であるということは避けられな

いだろう。

自然という思想にならない、その

あり方の方向性がそのまま自然と

いう思想であるのを理解しなければ、

自然を理解したことにはならない。

僕らはそれを言葉化すれば理解した

ことだと誤解している。僕らは人生

で何度も「言葉にならない」経験を

してきたにも関わらず、依然、言葉

が理解の中心だと思って、そこから

抜けられない。

それが自分(その裏返しが知性とい

う<双子に似た>性格)の本質の

要素であってみれば、それも自然の

なせる技で仕方のないことなのか。

ギリシヤの神殿の柱に書かれていた

という「汝自身を知れ」という言葉

はソクラテスの比喩を思い出す。

彼の曰く、僕らは洞窟で真実の灯り

に照らされた僕ら自身の影を真実

だと思い込んでいる。(そこに自分

がある、と)しかし、振り向いて

見さえすればそうではないことが

わかる、と。

それはまた地動説をも思い出させる。

僕らは毎日、太陽と月の運行を空に

見ている。だから、太陽と月がこの

地上を回っているのであって、僕ら

は地上で動いていない、と(天動

説)。

それらは同じ疑問を提出させるよ

うだ。それは僕らが見たり聞いた

りしたものであってみれば、それは

僕らという主体が外界に対して、

そのままを記述したものだから、

主体と外部のものという相対を

示している。相対なものは、常

に変化する可能性がある。変化

しないのが真実であるなら、僕ら

が知性を志向して、従い、それを

信じる限り、誤解は常に避けられ

ないものとなる。

だから、僕らは自分のない世界が

信じられない。それは自分が認め

るものが神であれ、何らかの宗教

であれ、偶然流れ着いた流木で

あれ、偶然運のいい時期に飼って

いた猫であれ、それらを神棚に祭り

上げたことで、それらを相対的に

信じたという事柄に過ぎない。

信じたというのは、それを「絶対」

と思ったことであり、現実世界に

絶対があるということが、そもそ

もの誤解でもある。

そして、何も信じれるものがなく

なったと言っても、僕らはなにか

を信じる必要がある。それは輝く

金字塔のように事実だ。これが真実

かもしれない。信じるもののなく、

信じるものを把握しようとする。

その矛盾をどう生きるかが人生で

あり、いつも変わらない人生の難し

さなのだ。


もう一歩言えば、悟りを開いたブッダ

はその始祖ということもあり、世俗

に戻れず(希望はしなかっただろう)、

また世俗で成功した者は現実の煩悶

の中でブッダの心の清明さに憧れる。

つまり、ブッダもこの地上の矛盾を

避け得なかった。ブッダの死後、

大乗の仏教が大成するまでに700年

近く経っている。大乗の仏教が唯一

の煩悩として認めた、世の人を救う

(衆生済度)という標語は、悟りに

至らぬ者がこのままでは廃れそうな

当時の仏教を救うためのプロパガン

ダのようなものだ。

それは仏門修行に励む者に目的を

持たせたかったということもある

だろう。

あとは歴史の事実を眺めればいい

ことだ。阿弥陀如来とかの如来思想

はブッダの経文にはないだろう。

法華経は大きな如来思想であり、

哲学的な止観の物語であり、それ

は言葉を信じる者たちのブッダ新

解釈であったはずだ。

悟りが何かについては(その係わり

合いの何かについては言えても)、

言えるはずもないが、大乗の思想が

それではないとは、気がついた者は

誰でも言えることだと思う。
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ねこ瞑想と美しい空 [日記]

それなりに運動の意味で歩いて、

5000歩を越えたので、寝られる

つもりだった。昨日も、一昨日も

寝られたので、そうなると思っ

ていたが、かなり興奮している。

体が炎症を起こしているのだろ

うが、実際にいろいろな情報が

頭の中を飛び交って、それに

好奇心が強く刺激されて、寝て

いるどころではない、と起きる

のを促されているのがわかる。

それはブログを書け、という

ことではないのだが、つい今の

状態を確かめたくて、坐ってし

まう。パソコンを開けば、いろ

いろな情報を求めて、情報サイト

のサーフィンを始めてしまう、と

いうわけだ。

細切れのテーマばかりで、印象

情報だけなので書けるに至った

テーマはない。

すると、なにも書かないでジッ

としていよう。足元が冷えるので、

セラミックヒーターを点けてみた

りする。なにも思い浮かばない。

それにしても最近は、知的興奮に

見舞われるようだ。新しい情報に

そこにアプローチする機会ができ

たことに嬉しくて興奮するので

ある。完成とか、それなりに網羅

してまとめようという気は、あま

り起こらない。勉強したくない

から、読書でさえ、情報のピッ

クアップしか考えていない。

読んで楽しいものなど100冊に

1冊だと思っている。すべて

マニュアルを読むように、如何

に素早く情報を本から吸収する

かに掛かっている。

それで今日も悟りは量子力学だ

と書いている本を購入した。読み

たいとか、新しい考えだと思った

とか、感心したからではない。

批判するのにちょうどその都合の

いい項目が並んでいて、説明が

加えやすいからだ。図書館にあれ

ば借りるのだが、電車を利用して

借りるくらいなら、廉価で中古の

本屋にあれば購入した方が経済的

だ。本屋にあったのを一度帰って

調べてから、購入することにした。

「錯覚する脳」という題だ。

「脳はなぜ心をつくったか」とい

う本を書いた人で、これもだいぶ

前に購入したもので、これから先

に読むべきだろう。と言っても、

思い出す前にもう購入してしまっ

た。人生はそんなもんだ、という

洒落めいたことも言ってみたく

なる。同じ本をダブって買ったの

ではない、まだよかったではない

かという慰めもあるが、もちろん、

慰めになっていない。

本をアマゾンで調べていて、面白い

本を見た、「ねこ瞑想」がそれだ。

「毎日5分ねこになる」「ねこ写真

を眺めながらニャンとも幸せ」とい

うもので、すぐに、あ、理に適って

いると思った。

それは瞑想への導入としては優れて

いるからだ。猫が好きなら、それを

利用するのはうまい手だと言える。

始めは猫の映像ばかりを思い浮かべ

て悦に入る、ということになるの

だろうが、人は同じことを続けては

いられない。映像を結ぶにも軽い

集中が要る。それはやがて切れる

時があり、隙間ができ始める。

猫は人間のように思考するのでは

ないから言葉はない。もっとも、

人間に対して要求するのに必要

なので、ニャーという対人間語を

発明はしたが、・・。

猫同士では鳴かないから、どうにか

交信しているはずだが、一緒に暮ら

していないので、わからない。

犬はほんとうに面白い。その笑った

顔は知っているだろう、まったく

傑作だ。悲しそうな顔もして見せる。

それをなにか失敗した時でも演技で

してみせるから、賢いのか、偉いの

か、ズルいのか。面白い。見れば

参る。降参したくなる。


君が  三度の飯 よりも 

悲しい顔の  おたふく雲 

笑う顔の  チンドン屋 


見かけなくなったねぇ、チンドン屋


能登半島地震の復旧がずいぶんと

早いと感じる。1ヵ月と10日で

もう仮設住宅どうのこうの、近くで

店舗を借りて営業開始だの。東北の

3.11地震の復旧が長く感じたのは、

やはり原発事故のためだったのだ。

それで思い出したが、近所の246号

線の交通事故だが、明け方の事故だ

ったが夜には信号を回復させてし

まった。信号機本体は壊れていない

ので、代わりの金属の電柱を持って

きてそれに取り付けて、開通とした。

明日になるかと思っていたので、

手馴れている。それはそれだけ事故

の件数が多いことかもしれない。

その日は4時には起きたので、ごっ

つう眠かった。図書館の駐車場で

25分ほど仮眠したが、眠れなかった。

この時もなにか、脳が興奮していた。

しかし、車の窓から眠いぼんやりし

た頭で見た、空が美しかった。

こんなにすっきりしない頭の調子で

見たほうが、ただ綺麗だ、ではなく

美しいとまで感じるのに、なにか

場違いな思いだった。これだな、

これは山を登って、疲れ切って、

考える力もなくなって、ただなんの

想いもなく見る景色がそのまま記憶

される体のシステムがあって、下界

に降りて、少ししてから思い出すの

は必ずそういう時に観た景色の美し

さなのだ。眠くてなにも考えられな

い状態だからこそ、ありのままを

見るというのに達したのだ。

意識はしないが、それが本来は

見る、という意味なのだ。

座間図からの空-1.jpg

写真で見ても素晴らしいと思うの

だが、これは僕のその時の記憶を

なぞるからだろうか。

なんでわざわざ美術館に絵なんか

見に行くのだろうと思った今の

瞬間だ。

月を見ればいい、星をみればいい、

空をみればいい、猫を見れば、・・。


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火事 3件の因は心の1件 [火事]

始まりは「オーメン・ザ・ファー

スト」というつまらなかった映画

を観たことだったと思う。

まず観たいという映画作品では

なかったことだ。時間つぶしで

映画を選んだ。朝の4時過ぎに

起きて、まず午前中は寝ないで

起きていようと考えた。それは

家で過ごしたら、自信がなかっ

た、まるで。ほんとうに眠い

時は、少しでも、寝ようかとか

寝てもいいか、というわずかな

意識さえなく、瞬時に寝入る。

それで目覚めた時に、寝てし

まったと気づくことになる。

だから、家ではなくどこか外で

時間を過ごすという選択になる。

映画にしたのだが、面白い映画

は上映していなさそうだったの

で、次善としてホラーなら寝ない

だろう、と怖そうなホラーを選ん

だのだが、よくなかった。星☆

5つの評価で2つだった。

ともかく演出が下手。他の人は

十分怖いのかもしれないが、僕

には恐怖は物足りず、ただ叫び

声が大きいばかりか、うるさ過ぎ

て耳を塞ぎたかった。すれば怖い

のだろうと隣席の人に思われるの

が嫌でそうしなかっただけ。

興味をそいだのは、悪魔の子、

ダミアンが生まれる理由が、若者

の信仰離れだという、陳腐な設定

だったことだ。神に若者を振り

向かせるために、「反キリスト」

を誕生させて、世の中を混乱させ、

地獄化させて、神の助けを乞う

ように、というものだから、まず

低級な漫画の世界だ。

しかし、キリスト教国の市民には

十分、恐怖があったのではと想像

はできる。神の存在が密着した

ほどに無神論者という言葉がある

のであるから。日本人で無神論者

は一旦、キリスト教やイスラム・

ユダヤ教などの信者になった者

が転向してでなければ、唱えな

い代物だ、無神論は。日本に

真の唯一神の意識はないのだから、

それは概念だとしか思っていな

い自分に人は気づかないだけだ。

それは罪の意識に関わっている。

原罪がなければ、神にはまず

無関心だ。わざわざ無神論だと

断る必然がない。

前書きで長くなってしまった。


2.246事故 

国道246号線がすぐ近くの交差点

を通っている。今までにも数回

大きな事故があったが、今回も

信号を備えた電柱と50㎝も離れた

電柱との2本をへし折って、トラッ

クが衝突するという事故が起きた。

246交通事故1-1.jpg

歩いて行ったら、この状態。左上に

電柱が2本傾いている。その根元

付近に運転台が潰れている。四角い

白の積み荷はコンクリの建材?部品

で相当重いだろう。反対側から見る

と、

246交通事故3-1.jpg

と、トラックの右側面と後方が見え

る。真ん中の白いトラックは2t車

だろうか、ヘッドが潰れているから、

このトラックの正面に初め衝突して

から、そのままの勢いで、右側の

電柱をなぎ倒したようだ。

運転席の屋根に積み荷が落ちそうに

乗って傾いている。

246交通事故2-1.jpg

同じ交差点で、右側に衝突のトラッ

クが隠れて見えないが、県道の車線

に救急車と警察の事故対応の車両が

停まっている。運転手を病院に運ぶ

のだろう。

このあと30分もして戻ってくると、

パトカーが数台来ていて、警官8人!

で交通整理をしていた。信号が倒さ

れたので、無信号でその間に、一車

線通行になり、渋滞が発生していた。

県道側がひどく、今までに見たこと

もないほどで、長く遠くて見えない

ほどだ。


3. 夢のキャンバス

朝、夢を見て、自分では記憶に残る

ほどに回想をくり返したつもりだっ

たが、今は記憶に自信がないほどだ。

う~ん、思い出せるだろうか。

まずキャンバスだ。12号くらいか、

大きめのキャンバスの左上にだけ、

少し、油絵の具が3色くらいかため

て、塗ってある。あとは95%は白い

キャンバスのまま。

小さな舞台のような板の間にあって、

手前の左右の端に、真鍮色の手術用

のような金属皿が一枚ずつ置かれて

いる。その他のキャンバス以外の

付属の品のことが思い出せない。

真鍮皿には水が張ってあり、そこに

花瓶があって、モクレンの花のよう

な白い大きめの花が生けられていた。

その花びらが落ちて、真鍮皿に入ると、

突如燃え出した。これに慌てて、

(姿はないが)職員らしきがその硫酸

もどきの化学薬品の水を捨てて、ふつ

うの真水に取り換えた。

この絵の背景がある。京都の古い

時代に事の発祥があるようだったが、

それ以上にはわからない。

もう忘れてしまった夢の前の部分から

つながった情念が、キャンバスの情景

になり、女がなにか声にはならない

情念と感じられる、これも聞こえは

しない声を響かせているようだ。



よくわからない夢だが、目覚める前に

少し、意識が取り戻せた時に考えた

のは、火事だった。その火事の因は

映画「オーメン・ザ・」でラストで

悪魔の獣をも焼いて逃げるために

放った火事の場面だろう。

悪魔ってこんなに弱く、カトリック

の神父たちにコントロールされる

ほど弱かったか?としらけさせる

場面で、焼かれて、現実の炎で

燃えて死んでしまうと見える絵

だったが、ここにも恐怖に染まれ

ない、底の見えた演出のまずさが

あった。やたら、狂気に歌うよう

な声、血の出産の場面や奇形児の

映像でおどろおどろしさを見せ

つけても、効果は半減、それ以下

だった。信仰が身近なものでは

ないので、感情移入ができない。

国の宗教文化による違いが、ここ

までのものなのかと、限界さえ

感じた。


4.火事

この日、自分の思っていることを

想像・推理してみると、交通事故=

火事という構図が浮かび上がる。

それは油断という隙間から忍び寄っ

て瞬時に大事に至るというパターン

のエピソードだと思えるのだ。

交通事故には居眠り運転の時に

事故にいたるのが多い。なぜそこ

まで眠いのに運転するのか。なぜ

ある時にちょっとした不始末で

火事になるのか。

消防庁の令和3年の出火原因は、

1.たばこ、2.焚き火、3.

こんろ、と圧倒的に人間のミスに

よる小火が大きな火事になった

ようだ。

僕は火事に自ら出向く性質がある

と思っている。その意味は今も

わからないのだが、直接見て、

そこから反省を促すとか、初心に

帰るとか、注意の意識を新たにする

とかがあるのかもしれない。

まだ両親が顕在の時に、家の1階で

は女性に一部屋を貸していたが、

夜中、その部屋の真上で寝ていた

僕はかすかな異臭に目覚めた。

煙があったとかではない。かすかな

ものだった。同じ1階で寝ていた両親

に変なにおいがすると言って、起こ

したのだが、その部屋の女性はその

夜はどこかに泊りに出たらしく、

留守だった。合鍵で父が部屋を開け

ると、たちまち黒い煙が、ドアから

あふれ出てきた。それから騒ぎが

収まると、その部屋の女性が電気

炬燵のスィッチを入れっぱなしで

出かけたのが原因とわかった。

あやうく一家で焼け死ぬところ

だったかもしれなかった。

交通事故では、僕がトラックの仕事

で夜中運転していた頃、僕は運転も

上手く運もいいし、近頃2回事故に

なっているのでもう事故はないだ

ろう、と安心していた時だった。

そういう頃のある晩に雨だったが、

自動車道路で2車線、追い越し車線

側の乗用車がやけに寄って来ていた。

始めは雨の所為で視界が悪いのか、

と思ったが、クラクションを鳴らす

前に急接近して、少し接触してし

まった。やっと気がついて、2台で

路肩に停めて、事後処理をしたが、

「(私)寝てましたか?」まさに

寝呆けた事を聞いてきた。眠いのに

運転するなよ、という話である。


僕は気づいた。僕は運がいいから

事故にはこれ以上遭遇しないと、

自分を胡麻化していたのを悟った。

なぜなら、それが重要なのであるが、

2回遭っていたから、3度目の正直

が実は内心恐れていた。この恐怖が

居眠り運転の車を引き寄せたの

だろう。引き寄せが強い者は隠れた

恐怖心を抱えては危ないのだ。

しかし、気づかなければそれまで

ではないか。交通事故は自分は平気

だ、ではなく、当たり前に怖いと思っ

ていなければ、事故の危険性は増して

いると思った方がいい。


魔がさすのは一瞬だ。さしても心に

注意が行き届いているのならば、

危険はない。恐れを隠していない、

あっけらかんとした心なら、何も

やっては来ない。

だから、眠気に対抗するという中途

半端な理由で選択した映画鑑賞

「オーメン・ザ」は失敗だったの

だろう。心にわけのわからない負担

を与えてしまったらしい。

現実に交通事故を見るのも、恐怖

の事後処理を夢で試みたのも、

その心理的な表れだったのだろう、

と思えるのである。

火事は僕の心で起きていたのだ。

その日の恐怖はその日のうちに

(火事のように)消さねばならない、

そうなのだろう。現実も夢もその

一部はこうして恐怖によって作られ

てゆく。多くは心に隠された恐怖

によって。

自分を知る、というのはそういう

ことだ。僕らは会社や仕事を失わ

ないために無理も時にはすべきだ、

と思う。それは構わないが、その

事後処理は心にしないで、放って

おく。それは僕らの生活で日々に

起こっていることであってみれば、

目の前のことを疎かにしてはいな

いとする自分、実は疎かにすること

がどういうことか覚えない自分、

そういう知らない自分をどんどん

増やしている。恐怖は知らずに

溜まってゆく。家に帰ってから、

自分のためのひとりになる1時間

が必要なのは、そういう自分と

つき合う時間を作りなさいという

ことだ。


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不定愁訴という心理と隠された戦後 [現代の文明]

不定愁訴は昔は未病と言われ、病気

ではないが病気になりかけている、

あるいはその手前の状態などと言わ

れた。

しかし、今やアレルギーや軽度の

神経障害・精神障害の患者が80%

はいると思われる現代日本で、この

指標は役に立たないだろう。精神や

神経内科に通ったことのある学校の

先生が50%以上あるというのは、

以前書いたことがあるが、実際、

僕の周囲もアレルギーや神経疾患

のありそうな人は多く、僕には

縁がありそうだと思うくらいだ。

癌になる人も50%という数字が

出ている。羅患して死亡する率は

男性4人に一人、女性6人に一人。

癌は一種の免疫不全だろう。細胞

が傷つくとその修復が行われるが、

その失敗でがん細胞になってしまう

という。

それは突然変異のことだから、僕ら

は突然変異になりやすく、その悪い

例が癌なのだろうか。

基本はストレスという言葉が流行る

ほどストレスが増えたことだろう。

ストレスは病名ではなく、病気でも

ない。不定愁訴の別名だと言っても

いい。

原因は二つ大きく考えられる。文明

の発達による物事を細分化する方向

が進み過ぎたことだ。もう一つはそこ

から主に資本主義ではないが、人が

資本主義をそう捉えた儲け主義が

よく理解されていないことから、

医薬品や食品に劣悪な食材や添加物

が大量に利用されて、目に見えない

健康被害が拡大されて、誰にも

止められないほどに拡散し、大量

生産されていることだ。なので、

僕らはそれを大量消費せざるを得な

い食料環境・医療環境を強いられて

いる。もうそこまで来てしまってい

て、それをどう修正するかという段階

は過ぎてしまっている。

交通事故の対策のようなもので、死亡

事故は避けられない、どれだけ死亡を

減らせるかを考えようという処。

僕らはその弊害を半分に減らすべく

努力する、しかもストレスが生じな

いように無理なく、基本的な調味料

とか、家で調理するとか、薬や病気に

ついてはある程度まで自分で調べて、

自分の体調などと照らし合わせて

おくとか、自己防御の面倒をしなく

てはならない。

神経質になる必要はないので、うま

いものを食べる機会はあれば、それ

は時には、一時忘れてしまった方が

いい。

自分を気分的に縛らずに、無理ない

方向で健康管理を進める。

学術は発展したというが、そのため

に学問分野は細分化して、医者も

学者も法律分野の専門家も自分の

専門以外では無力だ。同じ分野でも

わからないことが多い。

僕の経験では歯医者に多いのが医者

ではない歯医者だ。治すべき歯を

わざと治療を残して、また再来院

させるといった歯医者に数度遭遇

して、良心的歯医者を探す羽目に

なったことが再三ある。治療の経験

は年齢からも回数からも長いので、

中途な治療かどうかはわかる。また

実際に治療が下手なのがいて、歯磨き

粉をサービスしてくれたが、通う気

はないので、見限った。

歯医者になるのは大体、歯医者の子供

で同じ歯医者になる二世が多く、それ

でか歯医者は増えすぎたらしい。

近くにはゲームセンターにあるような

ゲーム機を何台か導入して、子供を

誘っている医院もある。

仕事も細分化が進んで、様々なその

隙間に入る外注産業が定着化したの

だろう。そんなことも仕事になるの?

という猫の手で背中かきます、みたい

な外注もあるようだ。


(あまりに細分化が進んだので、それ

をまとめて、どの部分が大事な中心

で、どの部分がその外側で、重要性

は低いと指摘してくれる、体や心を

診断してくれる未来のAIの分野が

もう5年後には生まれるはずだ。)


それらの細分化による、僕らの

精神、つまり神経に悪影響する

細かい作業や気遣いが仕事に増え

て、僕らはストレスを当たり前に

増やし続ける。山や保養地へ行き、

心身の回復とかするというのは、

当然のことだ。山にはゲーム機も

パチンコもないし、自販機さえない。

仕事を置いて来れば、すべてアナ

ログで、自前でこなさなくてはいけ

ない。体は使うが、神経は無理しな

いから、車に注意したり、信号を気

にしたりしないで、運動しても健康

な体のための運動ができる。

それでもアウトドアスタイルでピク

ニックに来るのなら、なんでも最新

の便利な器具・道具に頼るだろうから、

自然の生活の効果は少なくなる。都会

で運動ジムで体を動かしても、ストレ

スは半分解消できればいい方だ。


僕らは文明社会を経済面でも、生活

面でも人間に真にやさしい方向・未来

への新感覚や感情の豊かさを育て、培う

方向で改革しなくてはいけない時代の

転換点に出会っている。と言うか、

それを転換すべき時期に追い込まれて

いる。

どちらでも同じだ。

子供にそう教えて、そういう教育機器・

教科書を作るような方向で設計して

指導してほしい。そういう全体から

考える教育をどう図るか、そういう

教育者たちを育てなければならない。

例えば、科学を数学と同時に教える

だけでなく、歴史の側面も同時授業

で三つ巴で教えるべきだと思う。


だから、今の戦後を引きづったGHQ

の日本を精神的にせん滅するための

構想から計画された、今の共産思想

を現在まで保つ流れになった人員や

教育組織を潰して、新しく教育をどう

するかを考えられる方向で子供や青年

を育てなければならないだろう。それ

は革命ではない。敵と味方ではない、

彼らと僕らの協同の意識改革になる

はずだ。



意識は、僕らが一人一人何を考えて

いるのかを把握することが大事だと

知ることが優先事項になる。その

はずだ。

科学のこれまでの大成果と大事さとは

別に、なにがこの世を動かしているの

か、その科学ではわからないものへの

健全で真摯な全般への理解が必要になる。



と、あまりに多くを言い過ぎたので、

ここまで。
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知恵の根幹は今ここにある [知恵]

何をなすべきか、ということ全般が

今は霧の彼方のような掴みどころの

ないものになって、空中分散して

しまったのではないか、と訝る現在

が続く。

はっきりしたのは全米TOP10大学で

必読書の第1位がプラトンの「国家」

で2位がカントの「純粋理性批判」

であることから、その批判を思いつ

いたことくらい。

なにか大きなテーマを見出したと、

その時は感じたが、また途方もない

徒労を見出したな、という気分にも

させてくれたとも。

次第次第に、回り道をしている暇は

ないぞ、と言われていて、それは

わかっているが、と答えようとして

また憂鬱になる。

憂鬱になると言って、鬱にならない

ことは知っていて、この処その気分を

味わうには人と会う機会が少ないの

で、無理な話なのだ。

そこで戯れにでも憂鬱という言葉を

発すると、少しは憂鬱への郷愁の

ような感じを思い出すので、そう

してみた、だけなのだが、それだけ

でも嬉しいのは、おかしいだろうか。

世捨て人というのは世を捨てた人で

はなく、世から捨てられた人だと

小林(秀雄)が言っていたが、世は

人を見捨てないように動くのだろう

が、その人が自分の過ちに気づくか

どうかを見るために村八分にして

孤立させることはある。これは

家庭内でも起こることだろう。

そして、見ないようにして見ている。

誰かが気に掛けてはいるのだが、

本人がそれに気づいて反省しなけ

れば、そのままの状態に耐えられず、

やがてその本人から世から離れる。

孤独な一人の生活を始めるのだろう。

まだそれでホームレスになる人は

まともかもしれない。最後の処で

社会のシステムとつながっている

からだ。

僕がここにいる訳はしっかりした

理由があるからだ。つまり、それを

承知しているから、僕は孤立したり、

そのために孤独を感じたりしないの

だが、それは精神の内面という世界

での出来事の上で、実際の現実社会

とはあまり縁がない。

そして、現実という場面にいつも

ヒリヒリしたものを感じている。

これは何かになろうとして、何物に

も(また何者)なれないことを示し

て、この世との隔絶観を意味している。

自分を持つという状態が、自我を立て

て情意に拠りどころを求める性質から

僕らは孤独になってしまい、その感に

責められる。それは安心できないと

いう絶望が根底にあって、それこそ

は存在とか言葉を使っているが、

僕らの根底を揺るがしかねないもの

だからだ。

どういう意味か?

例えば一つの例で言うなら、::

僕らは便利さから数字を、また数学

を編み出した。円周率(Π)を考え

てみよう。

率だからそれを数字で規定しようと

いうことだ。10を3で除算すると、

10/3で書くのは済む。これを少数

で書こうとすると、たちまち3,333

3333333333333333333333333

33333333・・・・とキリがない。

それが10/3のように書ければいいが、

Π(パイ)ともなると、3.1415926

5358979323846264・・・とこれ

は10/3というように短略化して書け

ない。

上のΠの数字は記憶だけで書いたので、

間違っているかもしれない。24数

あるのでたぶん、平気だ。

小学校の時の百科事典に載っていた

ので暗記した。古い記憶は消えにくい。

60歳以降に120ケタまで暗記したが、

2,3週間ですっかり忘れた。

さて、このΠ を使って目の前に書か

れた円の円周を出すことができるが、

おかしなことに気づいただろうか。

円はきっちり書けているから、その

長さはきっちり決まって数字で

出て来るに違いないと直感で思える

ことだ。しかし、Πはいまだもって

その解は出ていない。コンピュータ

で計算して数十万ケタ、いや数億ケタ

まで出ているのだろう。

現実の円を見てくれ。完結している。

ひとつくらいきっちりとした数字が

出てもおかしくない。が、でないの

だ。つまり、例えば5㎝の紐を切っ

て、それを円にした場合、円周は5㎝

になるのに、今度は直線である直径

が決まらない。円周が決まった場合

はΠから直径も導き出されるが、なに

しろΠは数字が終わらない。

直径=円周の長さ/Π、であるから

明らかである。直径がスッキリした

数字で出て来るには円周の長さも

パイと同じに天文学的数字になら

なければならない。直径という直

線も円周という曲線もどうもどち

らも決まらないようだ。

見れば現実は一目瞭然ではないか。   

直線はスッキリ切れている。そこに

数字が何億も並ぶような仕掛けは

ない。

こういう時はシャーロック・ホームズ

が言ったように「私の方法は、不可能

なものをすべて消去すれば、あとに

残ったものがいかに不合理に見えても、

それ以外に真実はないという推定から

出発するんです」とあるように、

数式が目の前の現実を導けない以上、

現実が正しい以上、数式の仮説、この

場合は導き出す円周率、または直径の

数字だが、が間違えているということ

になる。「いかに不合理に見えても」、

だ。

それはそうなのだ。約、同じ大きさ

のリンゴが3個、ミカンが1個あった

とする。親が二人の兄弟に分け与え

る時に、兄にはリンゴ2個を弟には

リンゴ1個とミカン1個を渡したら、

これで2個ずつよ、平等だから喧嘩

しないでね、と。

こういう時に算数は便利なもので、

役に立つ。が、現実には2個ずつでも

同じ果実ではないから、厳密には平等

ではない。2個ずつというのは便宜的

なことであり、同じ2個というのは数

の量が同じであって、現実の味はリンゴ

とミカンでは大分異なってしまう。

つまり、数字は現実を概念化する

道具に過ぎず、「現実を写し出すもの

ではない」から、現実から真実を照ら

し出すことができないもの。

だから、Πの計算など10億分の1ぐら

いの小数点以下、9ケタくらいでとどめ

て十分なのだ。それ以上は現実に存在

していないもの、だから。

それは大所から見れば、こうも言える、

数字や数学では現実を描けない、と。

それは数字の世界の概念化された、

地図とか模型とか見取りという仮説

であって、現実を数字の一方向から

だけで切り取ったもの、それは皮肉に

言えば仮想であり、偏った偶像である

ものなのだ。

科学者は宇宙を見て、それを科学とい

う数字で切り取った絵を描くが、それ

は現実の宇宙ではないということ。

生活も同じだ。時間はそういう想定を

利用して、機械で僕らは同時刻を想像

する。そうして時刻表にして社会生活

のあらゆるインフラに役立てている。

しかし、時間は自分(時間の存在)を

同定できない。

朝も夜も日の出も日の入りも、同時刻

になるのはその地域では、年が変わら

なければならない。毎日違うように

計算されているが、僕らには朝は朝で、

夜は夜だ。おまけに日の出の位置も

夕陽の位置も同じように毎日ズレて

変わる。それは地球の自転と公転の

速度に関わっている。


僕らは年末の23時59分59秒から

元旦の0時00分00秒までになにか

生活が変わってしまうことは、まず

ない。

世界時間は「1秒はセシウム133原子

の基底状態の二つの超微細構造準位

の遷移に対応する放射の周期の91億

9263万1770倍の継続時間」と

1967年に定義されている。振動数

(周期数)で数えているので、その

粒子が交替すると、微細に変わって

しまうのだが、それをなにかで同定

して、正しいかという測定ができ

ない。精々、同じ別の粒子の振動

と比較するくらいか。そして、

それも厳密には同定した、とは言え

ない。

僕らはそういう時間とともに、実際

は時計とともに生活しているので

あって、時間を確定したりできない

し、見たり聞いたりはもちろんでき

ない。

ところが、そこに数字の、数字だけ

の正確さは含まれるから、僕らは

正確にして精確なものがあるという

錯覚に陥る。

僕は現実を半世紀は観察したつもり

だが、そんな充てになるものはなか

った。あるのはその時その場で役に

立つ、ある側面でしか現実を捉え

得ないという計算や指標や空想に

類する学だけであって、そういう

ものから現実に何かが生みだされる

には現実の矛盾や問題を長い時間

をかけて数々を解決しなければ

ならなかった。その後でやっと

実用化されるという結果が得ら

れた。

科学の法則は長いスパン(期間)

で保つものがあり、比較的長生き

だった。万有引力の法則も100年

は持ったのだろうか。

万有引力も仮説であるのは論を

待たない。重力が引き合うのでは

なく、互いに近づく運動の様相に

見えなくもなく、それはまだ不十分

な論だが、存在しているらしい。


問題は僕らだ。そういう数字も、

数学も、時間も、哲学も、科学も、

それらを利用して生活する長い時が

あったので、その概念が宗教のよう

に心に染み渡っていないだろうか。

朝に、夕に、お祈りする、教会に

行く、お祈りする、ノートに毎日

計算する、時計を毎日眺める、その

間に僕らの心はなにを取り込んで

いるのだろうか。どこかで衣服を

洗濯するように、心についた錯覚

や誤解を洗い流すことをしてきた

だろうか。

それが何を意味するのかを、誰が

見るのだろうか、聴くのだろうか、

肌に感じるのだろうか。

見るとは何か。眼球で見える部分は

限られている。ではなぜ眼球の開放部

360度の視界があると僕らは思い込ん

でいるのだろうか。

耳は、匂いは、骨は、皮膚は、そこに

も僕らの考える要素の一部が脳に指令

を送っているのを知っているだろうか。

知らずともかまわない、問題はそれが

重要視されないことだ。

全米トップ10の大学が2千数百年もの

古代のプラトンの「国家」を必読書

第1位に選ぶくらいに、人類は社会で

の評価(国のあり方、理想、正義)

ばかりに感心が行き、自然と心身の

生活にはなんも進歩することはないん

だな、となぜ誰も思わないのか。

その方が僕には不思議なのだが、・・

・・。




とまあ、これはそれほど画期的でも

ないし、世界の傾向の大雑把な面を

泡立ててみただけなのだが。国家的な

国際社会の文明や文化と同じくらいに

広いし深いかもしれないが、そこに

取りこぼされた世界も必要だと思われ

ることが現在では徹底して足りない。

心を心理学でと言うが、心理学は精神

分析をする方法を言う。精神はなるほど

心の一部だが、分析するは、また哲学

する、科学するというのと同じことで、

脳の解析で心がわかるというのと同じ

間違いを犯している。が、それさえ

疑われていない。

また善と悪という概念の仕組みが解か

れなければ、その精神にかかる自己

崩壊の危険因子は生みだされ続けて

甚大になるし、一人の犠牲で100人

が助かるなら、その犠牲はやむを

得ない、という単純な計算思考を

する愚かさから逃れ得ないと思わ

れる。それは事実の根幹を理解しな

いことから始まる。



::メモ

なんか、堅く終わる。言い足りない

のは、理性の発生は知性単独による

ものではないこと、その生成は人生

経験が必要とされること。その働き

が適時に適応して働いたことを称し

て、知恵という。(内容は今は省略)

:忘れないうちに:


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