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漱石から悲しみの先へ [悲しみ]

高校生の時に僕は遅刻の常習犯

だった。回数を重ねた遅刻者は

週末か翌週明けかに、掲示板に

名前が載る。僕は大体筆頭に

挙がっていたと思う。

校門で生活委員が当番で待ち

構えているのだが、よく元気に

挨拶したと思う。

その僕が生活委員の長である、

生活委員長だった。言い訳だが、

都立の受験校だったので、ほぼ

毎日英語の授業がある。その予習

で寝る時間が削られて、寝坊する

のが日課だった。その日々で得た

ものは遅刻常習の勲章(そんな

ものはないが)と、英語の辞書を

速く引けることだったように思う。

乗っている時は、最初に開いた

ページにズバリその検索したい

単語が載っていることもしばしば

あった。自分でも不思議だった

から、伊達(だて)ではない。


何の脈絡もなく、漱石に移る。

芥川龍之介が漱石の晩年に弟子入り

したが、その翌年には漱石は逝去

している。ほぼ1年だった。

芥川は漱石をその言葉に影響力が

あり、なんでも漱石の言ったこと

なら信じてしまいそうだと磁力の

ようなものがあり危険だと菊池寛

へ手紙を書いている。

芥川の神経鋭い感受性が感じられ

てブログに書いたことがあるが、

あとで気になったのは、そう感じ

たのは芥川ひとりだけだったのだ

ろうか、という疑問だった。

それでそのまま忘れていたのだが、

「漱石追想」という漱石が亡くなっ

た当時の周囲の人たちの漱石感想が

寄せられた文庫本を図書館で見かけ

る機会があって、そこにやはり芥川

だけではない漱石の内面に触れた

ような文が載っていて面白いので

手に入れた。

岩波文庫なので表紙に一部が書かれ

ている。

::「先生は相手の心の純不純を

かなり鋭く直覚する。そうして相手

の心を細かく隅々に亘って感得する」

(和辻哲郎):といった具合で、

これはと期待させ、またその通りで

あった。   (つづく筈)

・・・・・・・・・・・・・・・・

涙が 降って来た

青春の 雨 というやつ 

湿っぽさを 聴きたいのに 

なぜか 心は 爽やかな 

歌声を 求めて 

 窓の下には 神田川 (神田川)

 17本目 からは ・・(22才の別れ)

 ・・・・・・・・

 日々を 慰安が 吹き荒れて 

 帰ってゆける 場所が ない

 日々を 慰安が 吹き荒れて

 死んでしまうに 早すぎる 

      (祭りのあと) 

 もう 恨むまい 

 今宵の酒に 酔いしれて 


そして、涙は乾きやすくなった。

けれども、この繰り返しの時代は

終わっている。今のこれは長い

期間を超えての揺り返しなのだ。

それでも思い出は思い出だ。

あの頃はくり返せない過去に、

涙したが、過去も未来も今は

バッグひとつに収まっている。

考え過ぎるな、と言われた。

誰に? と山びこのように返っ

て来る声もあるが、誰の声で

もない。たぶん、自分のでも

なく、脳に溜められた情報が

当たり前に反射しているだけ。

それを気にしなくてもいいと

知るまでに何十年をかけたのか。

無駄を知るのに僕らは何十年も

無駄をする。

考え過ぎるな、自分の考えは

ほんとうにいい加減な情報から

できている。お仕着せの学校

教育は基礎から積み上げる画一

な方法を選択した狭いやり方で

できている。その時必要なこと

はそれが必要になった時でも

間に合うし、その方が集中でき

ていいというものが、数多く

あるのは事実だ。教育制度は

社会生活に必ず必要なもの

だから、それは必要だが、それ

はそのためにしか役立たない。

僕らが生きるための羅針盤という

案内役は他のものから教わるこ

とができない。

自分に尋ねるのは深い質問でなく

ていい。それが好きな人は考える

人だろう。

例えば、人の心の中心になるパターン

(1~3)はいくつかある。実際はここ

から枝分かれして無限に枝葉が伸びる

から、運命が分散する。ここで書くの

は新幹線が東京を出たら、到着は福岡

だというくらいの精度でしかない。

:: 考える人(1)は突き詰めること

であるレベルで煮詰まり、そこで初め

て限界を超えるということを知ること

ができる。

気持ちで生きる人(2)は本を情報の

ために読まない、小説を読むくら

い。相手との距離を取るのにうまい

外交や社交で生きる人もいれば、

人の世話に人生を見出す人も多い。

行動する人(3)はきっかけが必要かも

しれない。始めからかたくなな処

があり、臆病でもある人は、人と

の出会いによって限界が切り開かれ、

心を開き、行動に移る。もう限界

はなく、生きることは行動してチャ

レンジすることに代わる。::


それぞれの人の個性は基礎が大事

だとか(一部は正しい)の教育や

家庭に押さえられたり、そのため

に自分で自分を抑圧したりしてしま

うが、自分のタイプを知るには

それぞれだが、やはり漫然と一人

で考えていないで、人の輪を目指す

か、新しい地平に向かって行動する

かして、自分を自分で確認する必要

がある。

そこで感じたことを整理したり、

納得したりするのに、その後で

考えることが必要になる。


自分を解放しよう。

そのためにはやりたいことを準備

して、ともかくやってみる。何度

でも最初は挑戦する必要がある。

出来ないと思っていても、試した

事がないのならば、試してみる

必要がある。

この世の事実はみかけはしっかり

しているが、失敗の積み重ねで

できている。その結果がルールや

常識に置き換えられてはいるが、

本来そんなものはない。

僕はそれを知るためだけに40年

以上も思考のジグザグ道を歩か

ねばならなかった。

小鳥が鳴いている。そのためには

さまざまな自然条件がそこにある

ということで、それがどれほど

広範で複雑な要因が絡み合って

いるか、というそれが大事なこと

で、それは社会に護られていては

わからないことが、今は多過ぎる。

それがわからなくなってきた時代

に僕らはいるようだ。

この世に生きるのは、苦しみであり、

悲しみであるというのは紛れもなく

事実だ。それを逃れることはでき

ない。生きるというのはそれでも

生きようとすることだ。

道はジグザグになってまっすぐで

はないのが、おかしいことではなく、

誰でもの道だ。

悲しみはある。それを土台にして

長い間、人々は愛を育てた。だから、

後輩の僕らは愛に迷う。まず悲しみ

があって、あるからこそ愛が生ま

れた。逆ではない。

僕が出会った亡き人々からの愛は

そういうものだった。それはだから

死の世界で愛に触れている。死の

世界は僕らが考えるあの世ではない。

それはそういうようには存在してい

ない。

むしろ、死のゾーンという壁が愛を

囲って守っているのかもしれない。

だから、死に損なった人は、無意識

にそこに触れて愛を伝えられる。

自分の個性をゆがめた形でしか知ら

ず、それを信じて生きようとして

うまくいかない人は大勢いるだろう。

愛を自分の欲求への方向で求めても

それは愛を悠久の彼方に追いやる

ことになる。

「死を突破する」という言葉がまっ

たく役に立たないということは知っ

ている。

しかし、その役立たずの言葉で伝える

のがやはり、愛にタッチすることで、

知りたくない自分を知る必要も、

恐らく愛から来ている。自分は嫌な

奴だと知るのは自分を知る第一歩なの

だ。それを認める処から始めないと、

なにも始まらない。


僕は空想家になろうとしている。

物事はわかりやすくない。複雑だか

らではない。高いIQ が必要だから

ではない。現代は頭の良さという

ものを知能に限定しているし、そう

いう傾向を教育に組み込んでいる。

空想家とは、鳥のことだ。

野鳥のエサ小屋とエサを注文した。

朝にスズメや他の小鳥の声を聴いて

彼らの習性なんかを知りたいと願う。

なぜかわからないが、小鳥は警戒心

が強いのだろう、僕に声をかけたり、

直接軽いアタックをして、挨拶した

のは大型のアオサギとかトンビで

あとは頭のいいカラスたちだった。

僕が仲間ではないにしても、彼ら

は僕に共通の意識を持っていた。

だから、挨拶して通じると思った

のだろう。

僕は今まで無視してきた。わから

ないのだから、相手になっても無駄

だろうと思った。それが鳥の渡りの

番組を観て、なにかが動いたようだ。

小鳥の声を聴きたくなった。

観察するのは知的行為だ。そこには

僕らの正規の感覚から漏れてしまう

道理や論理が働いている。筋道だけ

が見える。動物行動学を学ではなく、

動物の生態生活として生みだしたの

はコンラート・ローレンツだ。彼は

鳥や犬猫、家畜たちと生活を共有

していた。コクマルガラスに帽子を

取られ、ヒナと一緒に池を泳いで

その生活の中で様々な発見をしたが、

観察はそれらの行動のあとで気づく

形で現れた。見つけようとして見て

いたのではない。

僕らの生きる大事なヒントはやはり、

生活の只中にある。多すぎる知識に

囚われると、僕らは自分を盲目に

してゆく。

考える人(1)は休む暇はない。

考えに考え、頭から煙が出るまで

考える。そこでやっとどこまで

考えるのが思考の限界かわかる。

そうして進むと、考えないこと

もしなければ、ただ無観察に見つ

めないと、ということがわかる。

行動する人(3)は臆病の殻が破れ

たら、世界を広げることだ。自分

で試して知識では歪んで誤解され

た内容を実際に体験してそれを

修正することができる。発見は多い。

教育で教わった「分野」というもの

は実際は存在しないことを知るはず

だ。なにをすれば、どうすればと

いう疑問は楽しくなるだろう。

人の気持ちに寄り添いたい人(2)

は、これまで通りに生きるだろう。

人の参加する輪の中で、和の実行の

難しさを感じるだろう。あなたは

愛に一番近いだろう。考えが感情

に左右されやすいので、そういう

嫌いなものをむやみに拒否しないで、

参考にしてアドバイスを大事にし

た方がいい。人のそれぞれの事情

はただ気持ちだけによるものでは

ないからだ。あなたが人をまとめ

られれば、一番リーダーに向いて

いるはずだ。平凡でもそのほうが

いいのだ。(これもつづく筈)


それぞれの人が思うさまは、山の

大きな岩から清水が沁みだして

流れるように、さまざまな通り道

をつくり、別れて流れゆく。

それを観る思いで、今はこれ以上

書かないでもいいみたいだ。


悲しみはやさしく思いやりを育て

苦しみは甘い実を内に含んで

やがて幸せを呼ぶ、というそう

いうひとつの人生もあるのだ。

ジョン・レノンのイマジンの

ように正しいことを謳っても、

わかりやすいことはなにかが、

大事な過程が省略されている。

音楽だから気分の高揚にはそれ

でいいのだろうが、歌詞をその

まま信じるのはあまりに不用意

だ。どうしてそれがどう正しい

のか、それぞれ自分で探し出さ

なくては、言葉だけに終わる。

それはそれを悪用·誤用する者が

いるということだ。

社会から教わるのではなく、ある

一定の段階からは社会のいい加減さ

が成立する必然、それを支える僕ら

人間のいい加減にならざるを得ない

必然を知る必要がある。

・・ と、また書いてしまった。


::ここらで::::


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