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道はない [道]

僕の道はどこにあるのか。

どこにもないからこそ、その問いが

現れるのではないか。

道が見失われることはよくあること

だった。しかし、もうその道はあり

得ないことだったら、大変なこと

ではないか。それは現れるべき道

というものが、もう現れることは

ないのだから。

それはもう道が必要ないのであるか、

道という指標のようなものが僕に

対して死滅してしまったのか。

そうなると、最もふさわしい言葉

である「混迷」とか「混沌」と

いうものではなくなる。

何かに対して混迷したり、まったく

見通せないので、混沌に陥ったと

感じることではないのだ。

では、何か。

生き方が変わってしまったのだ。

右や左を区別したり、危ないことに

注意したり、名前の対象の生物や

昆虫を間違えない、ということは

動物の知性で、人間の知性の使い

方ではない。

この世に対応してそこに自分の

社会的な対応としての方法を模索

することが自分の道を探すこと

だろう。それは自分の天性や癖を

鑑みて、また時代や現在の社会の

潮流に合わせて、または逆らって

道筋が整えられて行くといった

ものだ。

そこに自分の社会的意義という、

社会に生きるまっとうさというか、

正当性でもいいが、その意味・

生き甲斐をまったく放棄したと

したら、こういうことが起きるの

ではないか。

誤解から無知、暴力まであるのが

現代社会でそのどれひとつも衰退

したことはなく、流行のように

毎年姿や形を変えて現れる。

誰も全体を把握しない。それは現

情勢を把握するにしても、現状

分析しかしないからだ。全体では

なく、小地域、小範囲という一部

の現状を捉えるので、それ自体が

環境破壊とか温暖化とか新自由主義

と保守の戦いとか政治や倫理や経済

などの分野に吞み込まれてしまう。

そういう分類が分断として全体から

離れて、一分野に限定した考えに

なってしまうことに気づけてい

ない。

取り組んでいることは善で、その

地域的な一助にはなっているが、

一助というのは一時的な結果に

終わることを示すものだ。

僕らの根本はどこにあるのか、

と発言すると、もうそれが誤解

の元になってしまう。

何か一つのものを見出そうとし

てしまう。なにか一つで大きな

機能を備えて、その考え方でも

示せば根本問題はすべて解決して、

なるほどと人々が納得するような

真理とかは存在しない。

思想や概念はそういう狭い範囲に

閉じ込められた不便な武器なのだ。

それをどんなに新しい解釈で臨んで

もそれは人々に理解しやすいだけで、

実際の解決には至らない。絆や活動

グループがつくられて、皆で揃って

意気揚々で勇ましく、希望があり

そうだが、遡ってみれば過去にも

やったじゃないかという道をまた

歩いているだけだ。

全体に俯瞰して、社会全体にも心域

全体にも、パラレルでシンクロする

自分というものは、人間存在の成り

立ちから言って不可能なことだ。

しかも人間全体では、同じ事件が

起こっても、僕は子供で君は老人か

もしれない。僕はそれがわかるまで

後何年もかかるだろうし、君はもう

関わりになりたくないほど疲れて

しまっているかもしれない。

もうその狭い部分(それぞれの人の

成長や世代という)だけで重要な全体

への統一というものは失われている。

僕らはいつの時代もバラバラだった。



人民を悪い意味で支配するのも泥棒

の一部の理というものがあるようだ。

人は心理的になにかに拠りたい(頼り

たい)避けられない要求を本能的に

抱えているようだからだ。

僕らはこれまでの長い歴史の経過の中

で多くの暴力と不幸と悲惨な運命から

それが不可避であると信じることから

始めてしまっている。(諦め)

ほんとうは今から始めることがそれを

築いていく一本の道なのだが、不用意

にそれを邪魔する既成概念という洗脳

があって、僕らはその重圧に自覚して

も無自覚であっても苦しんでいる。

理解しがたいことは理不尽という

便利な言葉があって、その陰に

僕らの希望が被われてしまうのも

仕方ないことだと自分に思わされて

いる。だから僕らはその理由を知ら

ない。

大抵は、遠い遠い理想を夢見る。

世界平和とかそれは人が愛し合えば

いいのだ、と脳天気なことを考える。

愛を欲求するものの多く、愛を知ら

ない人ばかりの状態で、愛は行いで

伝わるがそれを条文化しようという

ことが、もう愛ではないとさえ知ら

ない。だから、寛容は善が半分ある

ものだが、愛では全然ない、とは

教わらないし、そういう考えに至る

ことで知り得る者も少ない。

そして、深くも広くも言葉に苦しみ、

言葉の広範な理解に至った者でも、

相手の言葉の真意という正しい理解、

それは複雑な感情や考えのかたまり

であるので、それを直覚するに至る

難しさは知らないことが多い。

僕はただ、その困難を知っている

だけましだと思っている。



だとすれば、僕が全体の人々が

全体を決めていくべきだと考える

以上、僕の考えられるような自分

の道が大事であるはずがない。

それはややこしいが、全体でひとつ

の意志にまとめるような全体主義

のことではない。必要な処は地上

や国で法律だって変わるだろう。

そこに人間性の統一があればいい。

問題は人がそれぞれ、それを知の

概念ではなく心の複雑な底の、言葉

(概念)のない実感でそれを理解

することだ。

賢人政治ではない。

才能のある者が独裁すると、必ず

野望が首をもたげる。凡人政治で

もできる体制でいい、そういうコミュ

ニティの在り方を確立させることだ、

と思う。



:::ひとつのきっかけとして:

子供時代がその人の一生を決める

とか言われるが、それだけでは信じ

がたい。もしそうなら、日本の

揺籃期はそれが終わった弥生時代

から現代までよりも4倍くらい長い

時代だった縄文がその揺籃期に

当たるはずだ。

だが、それを学問的に分析して

概念化しても、出来の悪い教科書

に過ぎないだろう。このヒントで

縄文にたどり着ける人が現れると

は、やはり信じがたい。

(ここで思い出した、「道程」だ。

最後にこの詩を載せよう)


<道程  高村光太郎:詩

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた廣大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の氣魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため  >
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