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へそまがり陶芸 屈人織辺日記 13. [陶芸]

秦野市の陶芸教室に通い始めた

のは、もう1年以上前になります。

ここでは陶芸の基本は何かという

疑問から、釉薬や土、焼成や窯の

ことなどあらゆることを聞いて、

手びねりから始めて、基本中の

基本を教えてもらいました。

僕ほどの質問をする人はいなかった

ようで、先生も本気になって考え

てくれました。ほぼ、知識を僕に

流してくれたのですが、・・。 


電動ろくろを陶芸教室で回しなが

ら、教わりながら、いつもの違和感

がこの半年間でだんだん大きくなっ

てきます。

そのままでは済まない自分の気性

なので、チョコを齧るようにちょ

こちょこ分析をいれることになり

ます。

今晩はそれが見えた気がしました。


その前に気になっていたことを話し

ますと、釉薬を塗って本焼きします

と、器は完成なのですが、出来上が

りは焼成の酸化と還元によって違う

のですが、窯の種類に拠って大きく

色合いなどが異なっていて、特に

自然のいたずらで変わった色合い

や味が出ることがあります。

これを景色と呼んでいることも多い

のですが、先生は陶芸への興味を

持たせる意味合いなのか、どんな

景色が出ても、いい味が出たという

具合に評価します。

これに違和感がありました。汚く

感じるような景色が出ても、感性に

逆らってもいいと言わなければなら

ないのでしょうか。僕にはすべて

がいい景色だとは思えません。

当然ですが、生徒さんの作品をけな

せません。

ただなにを美しいと見るかは、人

それぞれですし、すぐにはよく

見えないこともあるので、すぐに

その否定な見解は話したことは

ありません。

そのことを踏まえて、次の違和感

のことですが、電動ろくろは機械

が回しているので、その回転や

スピードに慣れながら、成形する

コツを獲得しなくてはなりません。

それが基本ですから、それはわか

るのですが、次第に僕の場合は

基本80%もあればいいな、と思う

ようになりました。

徒弟制度のように年季を積めば

いいというのでもなく、楽しく

やるには自由な幅が必要です。

基本は何のためにあるかというと

自分の思い通りに成形するための

技術を学ぶということです。

すんなりとは行きませんが、どの

成形でも、茶碗でも皿でもできる

ようになったので、これをもっと

壊したいと感じるようになりました。

僕の求めるのはろくろを自由に扱え

る技術を習得することではなくて、

ろくろも巻き込んで自然とコラボ

させたなにができるかわからない

作品を目指すことです。

つまり、ろくろの不備な扱いに

拠って歪んでしまうことがよく

ありますが、それを回転を遅く

して、任意に起こして、いびつさ

のある作品も作っていいではない

か、という試みです。こういう

挑戦に僕はいつも惹かれます。

ろくろの技術を完璧に習得する

と習慣のように、きれいな器が

出来上がってしまいます。

だから、味を作ろうとすると、

自分で考える要素というのが必ず

加わることになります。

僕はそれをやりたくないのです。

極端なことを言えば、自分の意向

した作品など造りたくないのです。

なんでこんなものができあがった

のだ、奇跡ではないか、という

作品に出会いたいのです。

僕には到底考えても作れないだろう、

という作品に!

それが僕が器に求める無鉄砲な要求

だと知ったわけです。恐らく、真面目

な陶芸家は知らず知らずにそれを求め

ているはずなのですが、基本とか、

習慣の技法に囚われて、基本の

向こうにそれを求めますが、それ

は手前にある基本の技術(自分)

を一度壊さないと出てこないもの

だと僕は思うわけです。

一度壊して、それを自然に帰して

やる、そこから始めても別段、

おかしなことではないんです。

そう思えませんか?


:::

これは僕の陶芸への基本の想い

ですが、やはり芸術志向も、欲が

あって歴代の面白い作品を真似た

いとも思うわけです。ふつうに。
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