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老後と自然の思想そして真実 [自然と人生]

36.5℃。微妙な発熱。

37℃までは熱じゃないって、強気

な女性が言っていたが、個人差で

平熱があるので、例えば、35.6℃

とかが平熱なら、1℃高いので、

熱っぽいだろう。

顔がむくむような、熱っぽさを

感じるが、静かに過ごしていれば、

一時的に熱が上がることがあって

も、すぐに収まって、体の調整も

数日で終わる。それがこれまで

だったので今回もそう変わらない

だろう。

微熱の軽いだるさは、無理ができ

ないのを知らせるので、義務感に

捕われず、好きなことをしていれ

ばいい。それは不調の中とはいえ、

それなりに幸福感を感じさせる。

思い切り集中して仕事をこなす

とかしなくていい機会が与えられ

たのだから、この1,2日は老人

を楽しめればいいのだ。

このだるさはまた、薬の所為でも

あるから、気を許して寝られるも

のなら、眠ってしまえばいいのだ。

体は具合が悪い時は、睡眠時間が

足りていても、また寝られてしま

うものだから。


老後というものを僕らは当たり前に

来るものと考えている。長く生きれ

ば、当たり前なのだと思うのだから、

そう考えるのだが、最近その老後と

いうものが生物でヒトに特有のもの

だという考えが現れて、その本が

売れている。図書館で予約して、

昨日か、借りられたのでそれに

ついて近日に一考してみたい。



僕は老化というものが避けられない

ものであるとしたら、通常に考えて、

長生きすればするほど手足や頭の

考えなどの退化・障害は進んでしま

うのだから、長生きしたいというの

は考えのない能天気な希望だと思っ

ていた。

そこで早めに死んでも、それが理不尽

でなく、無理のない自然なものなら

そこで死を選択するのは、当然な

ことのように考えていた。

しかし、技術が進んでそれがロボット

機械や化学薬品の発明であったり、手

足の代替であったり、人工細胞の内臓

の交換であったりの医療の革新や、運

動能力の更新であるなら、金はかかる

が、それも悪くはないと思い始めた。

それは同時に長い目で見れば、僕ら

が人間性を失い始めて200年は経って

いることを思えば、それをさらに更新

して、僕らは人間性を失うことに思い

至った。

科学者の考えていることは、脳さえ

残せば、あとは機械で代替が効く、

ということだ。これは数学の根本思考

とその延長である脳が主体であると

いう人間機械的な考えになることが

反省されていない。

皮膚や骨、そして最初の脳であった

腸の、脳の2倍とかの神経細胞の働き

を金属に任せてしまうということだ。

または人工のファイバーのような

無機質の無神経な代替品で間に合わ

せることだ。人間の脳が生まれるま

でにその生活の指針の役目をはたし

てきた神経細胞を無くしても、脳は

今まで通りに働くはずだという考え

がそこにはある。

僕にはそれが信じられない。睡眠や

運動には体と切っても切れない生存

のための要素があり、そこから伝わ

る感覚は地球の全哺乳動物を支えて

来て、今も支えているだろう。それ

は心は睡眠時に夢を見て心のストレ

スの軽減を図っているという信憑性

のある考えを否定するように思える。

そう言うと、脳に休息の時間を与え

ればいいだろう、という声が聞こえ

るが、問題は体の内臓などの神経と

脳神経は連動しているということだ。

その半分を取っ払って、人間は正常

なこれまで通りの思考が続けられる

か、という疑問だ。

中間を端折ってしまうが、長い目の

先にはただ人間がロボットになると

いう、これまでの常識のような当た

り前の感情、通常の感覚というもの

が働かないのであるから、そこから

失う人間本来(これまでの)のもの

があるのも当然なことではないか、

ということだ。

そういう感情なり、感覚なりが

失われるか、希薄になるのであれば、

僕らはふつうに元の人間とは変化

した、知性に偏向した人間、(今を

標準とするなら、)そういう歪んだ

人間に変形してゆくはずだ。

そうして遺伝子もそういう情報ばか

りが伝えられて、進化は進行する

だろう。僕らは微生物から植物、

動物、昆虫、ウィルスまで1000万

種以上の生物・無生物の関係で生き、

生かされている。この多様性を失う

方向を選ぶことはその多様性の関係

が不明である(これからも)ことで

危険であるということは避けられな

いだろう。

自然という思想にならない、その

あり方の方向性がそのまま自然と

いう思想であるのを理解しなければ、

自然を理解したことにはならない。

僕らはそれを言葉化すれば理解した

ことだと誤解している。僕らは人生

で何度も「言葉にならない」経験を

してきたにも関わらず、依然、言葉

が理解の中心だと思って、そこから

抜けられない。

それが自分(その裏返しが知性とい

う<双子に似た>性格)の本質の

要素であってみれば、それも自然の

なせる技で仕方のないことなのか。

ギリシヤの神殿の柱に書かれていた

という「汝自身を知れ」という言葉

はソクラテスの比喩を思い出す。

彼の曰く、僕らは洞窟で真実の灯り

に照らされた僕ら自身の影を真実

だと思い込んでいる。(そこに自分

がある、と)しかし、振り向いて

見さえすればそうではないことが

わかる、と。

それはまた地動説をも思い出させる。

僕らは毎日、太陽と月の運行を空に

見ている。だから、太陽と月がこの

地上を回っているのであって、僕ら

は地上で動いていない、と(天動

説)。

それらは同じ疑問を提出させるよ

うだ。それは僕らが見たり聞いた

りしたものであってみれば、それは

僕らという主体が外界に対して、

そのままを記述したものだから、

主体と外部のものという相対を

示している。相対なものは、常

に変化する可能性がある。変化

しないのが真実であるなら、僕ら

が知性を志向して、従い、それを

信じる限り、誤解は常に避けられ

ないものとなる。

だから、僕らは自分のない世界が

信じられない。それは自分が認め

るものが神であれ、何らかの宗教

であれ、偶然流れ着いた流木で

あれ、偶然運のいい時期に飼って

いた猫であれ、それらを神棚に祭り

上げたことで、それらを相対的に

信じたという事柄に過ぎない。

信じたというのは、それを「絶対」

と思ったことであり、現実世界に

絶対があるということが、そもそ

もの誤解でもある。

そして、何も信じれるものがなく

なったと言っても、僕らはなにか

を信じる必要がある。それは輝く

金字塔のように事実だ。これが真実

かもしれない。信じるもののなく、

信じるものを把握しようとする。

その矛盾をどう生きるかが人生で

あり、いつも変わらない人生の難し

さなのだ。


もう一歩言えば、悟りを開いたブッダ

はその始祖ということもあり、世俗

に戻れず(希望はしなかっただろう)、

また世俗で成功した者は現実の煩悶

の中でブッダの心の清明さに憧れる。

つまり、ブッダもこの地上の矛盾を

避け得なかった。ブッダの死後、

大乗の仏教が大成するまでに700年

近く経っている。大乗の仏教が唯一

の煩悩として認めた、世の人を救う

(衆生済度)という標語は、悟りに

至らぬ者がこのままでは廃れそうな

当時の仏教を救うためのプロパガン

ダのようなものだ。

それは仏門修行に励む者に目的を

持たせたかったということもある

だろう。

あとは歴史の事実を眺めればいい

ことだ。阿弥陀如来とかの如来思想

はブッダの経文にはないだろう。

法華経は大きな如来思想であり、

哲学的な止観の物語であり、それ

は言葉を信じる者たちのブッダ新

解釈であったはずだ。

悟りが何かについては(その係わり

合いの何かについては言えても)、

言えるはずもないが、大乗の思想が

それではないとは、気がついた者は

誰でも言えることだと思う。
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