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思い出す日本のきっかけ、また惨めさ [インド]

リスト作曲のコンソレーションの

第3番を聴いていると、ピアノを

自分が演奏している姿を想像する。

だけではなく、その自分は鍵盤を

うつろいながら、なにやら思索し

ている、その自分を想像するのが

気分をよくさせるのが意外だった。

ピアノを弾くと思うと、思い出す

のはひとつしかない。50万円くら

いバイトでためた資金があった頃だ。

ピアノの教室に通い始めた頃。

練習曲を弾きながら、世間で言う

ようにピアノを始めるには27歳だ。

遅いだろうということだった。

このままピアノを続けて作曲家を

目指そうとしたが、インドへ行く

計画もあって、少し迷った。

人生の選択肢が一度に来る年とい

うのもあるもので、資金面から、

インドとピアノと結婚はできない

相談だった。結婚は約束を交わし、

あとはインドへ行き、ピアノは

諦めるかだった。

三鷹市のアジア・アフリカ語学院

へ通うにしても1年前の決断が必要

だった。インドという新しい世界

へ飛び込むことがなぜか自分には

必要だという想いが浮かんで、

ピアノを捨てることにした。

半世紀の前の円安は。当時知ら

なかったから為替にどんな意味が

あるのかも知らなかった。

ただその当時、円は変動相場制に

なっていた。対ドルで238円で空前

の円高と言われた。その年、1万

8000件の倒産件数になる見込みと

言われた。

時代の違いがわかる。

固定相場制で対ドル360円時代が

続いたので、238円は相当な円高

だったのだ。今は152円で円高で

騒いでいるが、様々な不況で日本

も力をつけたのだろう。円安に転換

したとして160円、170円でも日本

はもつだろう、と思う。


あの時、インドへ渡航するのは怖い

ことだった。写真で見る苦力の少年

のまっ黒な腕が、肉体労働をしてい

るのにガリガリに細かったのを見て、

行きたくなくなったのを覚えている。

羽田空港だったろうか、緊張して

送迎の人たちとの別れも早々に、

機内でひとりになると一気に海外に

なった。機内はすでに外国だった。

孤独はそのまま空気になって、僕

の体をぴったりと取り巻いて、貼り

ついた。

嫌だと思いながら、注射をするよう

に嫌でも体のためにしなければいけ

ないように、楽しみで行くのでない

ことは初めから知っていたことだっ

た。

あの頃、こうしてインドへの旅は

極度の緊張から始まったのだった。



インドへ渡った1977年の3年後、

1980年の対ルピー為替が28,8

日本円だったので、非常に円高に

感じて、インドでは金持ち気分

だったのを覚えている。インドで

は嘘つきと正直が表と裏のように

インド人民の方向を示していて、

それは基本正直で気のいい国民性が

厳しい貧しさという現実のために

お金は盗られる方が悪い、という

泥棒は悪くない、盗られる方が間抜け

という反面真理を生みだしたものと

思われた。

インドのことを思い出すと、惨めさ

とは何だろう?と反省する。

それは僕がインドで出会った日本人

はインドの貧しさがわからない人

たちに思えたからだ。目の前には

圧倒的な貧しさの惨めさがあった

のだろうか。それはそこに生きな

ければならない人たちの現実だっ

た。現実は厳しいとか、現実は重い

とか言う人たちの現実はそれぞれ

がその国内での比較の事情であって

世界の(当時)最貧との比較をし

た上でのことではない。

日本人はインドでその現実を受け

入れられない。そうして自分たちの

暮らした日本の現状や制度、つまり

は文化の上からものごとを判断する

ことで、その現実から逃れようとし

たのではないか、と今 思う。

これはインドではないが、東京で

東大卒の同年代の男に出会ったこと

があるが、彼は海外ツァーの添乗員

兼現地係員で、多才な男だったが、

現地で男性暴力の性被害に遭って、

性格がロリコンになり、多少歪んだ

ようだった。

インドでもツァー添乗員の男に

出会って、少し一緒にいた。ベナレス

だったと思うが、ベナレスはインド

ではバ-ラ-ナシ-と発音しないと

通じない。日本は「にほん」でも、

「にっぽん」でも似ているが、インド

の国名はバㇵラット(ㇵは気音、小さ

く息を出す)という。

彼はフランスでなにかあったようで、

インドのレストランで僕が音を出して

なにか啜(すす)ると、食事で音を

出して啜ると、フランスでは注意され

ると牽制してきた。ここはフランスじゃ

ないだろ、と突っ込みたかったが、

なにか彼も注意されたことのある言い

方だったので、黙ってしまった。

ベナレスの街を彼と歩いていて、日本

人ヒッピーの夫婦に遭って、これも

書いたが、ハッシッシーをやりに行く

というのに、彼は付いていった。

僕は大麻と知っていたので断って、

先にホテルに帰った。しばらくして

彼が帰って来たが、様子が相当に

おかしく、帰るなりベッドに倒れ

込んで寝てしまった。息が荒く、

大汗をかいている。大麻でこんなに

なるのだろうかと、前後不覚になっ

た状態に恐れをなして、つき合わな

くて正解だと思った。

インドで当時大麻は公園でも子供が

観光客・外国人とみると売りに近づ

いて来る。用心しないと、なにか

日用の道具や小物でも持っていると

盗まれる。ここは生存競争の修羅場

のインドなのだ。

その添乗員だった男は僕が財布を

掏られて取り返した時も、その

掏った女が財布をすぐさま捨てた

ので、僕がそれを拾ったのだが、

彼はわざわざその女に盗みはいけ

ないということを説教していた。

僕にはわからなかった。この貧し

さの現状は彼らが1日を生きるのに

必死さを強いられている。盗んで

も生きなければならないのでは?

と僕には当然な事情である気が

した。だからといって僕は慈善家

ではない。盗られないようにする

が、その罪を問う気がしないだけ

だ。

国の貧しさは国の問題だ。

国民に仕事を与えるだけの経済を

整えるのは国の仕事だから。

彼の道徳観は日本人社会の受け

売りのままな気がした。僕には

どうして彼が添乗員を辞めて、

インドにまで来たかが疑問だっ

たが、インドからネパールに

入る時に僕はお金が足りなかっ

たから、一旦ホテルに戻って

ルピーを取って来ると言ったが、

そのことが彼との仲を決定した

らしい。

後で「君がお金を貸してくれ、と

言ってくれれば貸したのに(どう

して頼まなかったのだ)」と強い

口調で言われた。それは僕が現金

を余裕で持っていて、彼の現金が

減ったら迷惑だろうと思って、

1日の手間は平気だったからで、

彼がそこにこだわる理由がわから

なかった。

なんにせよ、ネパールからは共に

行動をしなかったのは彼も僕も

同様だった。ネパールでは彼は

オートバイでツアーをしている

日本人と共に宿を取っていた。

僕はその宿に誘われず、ひとりに

なり、その晩、夜空を見上げて

悲しい気持ちになった。

一度目の日本を思う寂しい晩に

なった。

これも書いたが、ブッダの悟りを

開いたというブッダガヤに行った

時にヌードルを食べさせる処、

掘っ立て小屋だったが、そこで

日本人の観光客の30代くらいか、

3人連れに会った。注文をすると

20分してもヌードルは出て来ない。

見ると、奥で麺を作る工程から

始めたらしい。これから練った粉

をまとめて切断するのだ。いつ

できるかわかったものではない。

が、それをその三人組は上から

目線でインド人を軽蔑する言動

をしていた。その時も、貧しさ

からだと言おうとしたのだが、

あまりに当たり前なので言わな

かったのか覚えていないが、

たぶん言わなかったのだろう。

言っても無駄だったろう。彼らに

は貧しさがわからないのだから。

インドを目の前にしながら、それ

をそのまま見ないで、自分たちは

まともで格上の人間だと金持ち気分

のままを保とうとするのだ。それ

こそがプライドという自己防衛、

イヤ、自己尊厳なのだが、それは

インドの土着の感覚に身を置きた

くない、現実への反動からなのだ

ろう。


僕は一度日本人をやめようとして、

そうしたつもりになったが、意識

が深く潜るにつれて、天皇への

尊敬が遥か昔のどこかの過去から

甦るようで、日本について自己

から見直す必要を感じて、今に

至っている。

だが、日本は曖昧模糊としている。

アイデンティティにしようという

積極的な気持ちはないが、根は

日本にあるのは間違いない。


それで思い出したが、従姉で

姉のように思っていた人の夫に

なった人が、まだ僕がインドに

行ったその前後に、僕のことを

一度、殊更に、日本人だと言っ

ていた。

その時に不思議な気がしたが、

従姉の母親の葬儀で数十年ぶり

で葬儀場で会った時に、握手さ

れたが、すぐに離さなかった。

他に2,3人握手されて驚いたが、

彼はいつまでも握手したままなの

か、と思わせたので、こちらから

手を放したが、重ねて不思議さ

が残った。

彼にとっての日本人さとは何な

のか?彼から僕はどう日本に見え

ているのか?

普段つきあいがあるわけではない

ので、そのままになっているが、

思い出してみれば、聞いてみたい

テーマがそばに転がっていたの

だな、と思う次第だ。


惨めさにある人は、まだ生存可能

な状態であれば、生きるのに必死

で惨めさは僕らが思うほどには

感じていない。反省する暇も

あまりない。

現実に眼を反らしても、それに

気づけない人の方が惨めだと

思う僕は人の感覚とは違うのだ

ろうか、とそんなことも反省し

てみた。

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呼んで呼んでただ書けばいいもんじゃね [詩]

これは 人差し指の 指紋 

昔の写真機が こうも錆びるとは 

海底旅行に 出たつもりは 

なかったよ 

そうじゃなく   僕は

そう 指紋を 押印したかった 

僕は 緊張すると 

かたまって 動けない 

そんな人間じゃない と 

でも 根拠が  

あるわけじゃないから 

弱い  突然  そう言われた 

過去の 影って 

引きづらないと いけない

ものなのか 

君は 言った 

こんにちわ  歩いて 

では さようなら 

その 回転軸は どこから 

持ってきたのか 

こんにちわ  OW NO! 

僕は なにも 言ってないよ 


カスピ海って  どこに 

あったか 

カルピスじゃ ないよね 

もの憂いな 

はっきりしないもの 

こういう時って 

なにも 言わぬが 鼻 

鼻も 曲がりゃ 

尿瓶も 香(かぐわ)しい

忘れてたよ  丘を 

カットして ぬいぐるみから 

こんにちわ だった 

なんて 甘さに腐っていったの

だろう  枯葉剤 


ゆるい気分の ままに 

させてくれない のかい 

楽し気な 楽器を 並べて 

アルミニュウムを 食べるのかい 

なんて  感じるの? 

その調子って  そんな 

サクサクの 畑の 

掘り返しじゃあ ない 

ヤカンと 湯沸かしの 

交換の時は どうするのさ 


いいから その道端に 

坐って 聴きなよ 

冷蔵庫の バッキンガムを 

冷やした ポークジャーキーを 

そして ヤギの説教を

あの 回廊は 帰ってこないのだろ 

厳(おごそ)かな 

裾から 光が 舞い上がった 

あの 回廊は 

あの 導かれた 記憶は 


もしも 彼女が 行ってしまう と 

言ったのなら 

君は  どうした だろう 

堅い 石板に  なにかを 

祈っただろうか 

崖から 飛び降りて 

海面を 飛ぶのを 

夢見た だろうか 

ここに  立って 

ここに  見上げて 

LOVE あ 上 い 

愛  Away 


なにも 言ってほしくない 

なにも 変わってほしくない 

なにも そうであってほしいし 

そうでなくても いいのは 

どうしてか 

河の 水の集まりに 

聞いて みるのだろうか 

蛍の 死骸に 

尋ねる方法を 

試してみるのか 

OW Yeh! 

こうやって 歩きながら 

ぶつぶつ 質問するのは 

なんのため 

なんでん  かんでん 

君が  必要なものは 

いや、  聴きたくない 

さらし粉で ラーメン 

食ったほうが マシだ 


君の 書いた ナンバーには 

英国の ジャムの 香りがした 

それが 僕に 

銃口を  向けるとは  

家に  帰りなよ 

セクシーな 教本を 

ポケットから 覗かせてさ 

How どうして  デイド ユー 

バラの蕾とは 

活かしてるね 

ハァー 理由だよね 

あんたに ないものは 


どうも エンゲージだね 

マイ マインド 

見たい?  見たくない? 

I ドンと  Want 

時間から  時間を追って 

乗り換えは できないよ 

諦めな  四郎ちゃん 

どうだ  デーイズ 

君が 望もうと 臨むまいと 

かつて 吐きだした期限は 

今 白紙に なったんだよ 


プラペルタ  パラキリタ 

へッ へッ へッ 

へ へー 

スングユリテブ カリコリブ 

ペッカラーノ  太平洋 

ユー キャリアント 

教えちゃろう  デカンタ 

いかんぜな  デモーション 

いい時間だよ  Good Time 

そうは      いつも 

いかないんだよ  

なかなかね    歩いている 

         道だよ 


いい麻紐だよ  Good Marsa 

グラッチェ 

ブラック ダイアモンド 

君が おどけて見える 

おう! ここに いた 

指紋のついた  グラッスィーズ 

いい時間だよ 柑橘系 


オレは 知ってるよ 

日照りの 日々 

砂嵐の One monthを 

食い物なんか 口の中まで 

砂だらけさ 

悪さを するなよ 

口の中まで  腐ったチーズさ 

未来に  残しておけるのは 

なんだろう 

僕は  それだ 

いい時間だ  Good Day 

それを  望むよ 


陽射しには イワシ帽子を 

雨降りには  イルカ・プールを 

君は 歌って 

僕は  リズムを とって 

無人島に 引っ越すよ 

いい時間だ  Good Day 

それを  望むよ 

なぜよ  なぜ 

そのカイトに 乗って 

ものごとは  進むの 

雨は降り  雪は落ちるのに

こうやって  そうやって 

オレオレ  キミキミと 

ものごとは  従順なの 

素直な時って 

なにもしていないのに 

こうやって 来るものなんだ 



いい時間だよ 

これって

それって 

いいもんだ よ 

退屈に 眼玉 

取らせたね 



・・Golden Week って 

・・暇だよな 


・・どうでもよくなった 

世の中って 

そんなもん?




コラムン ::

レッドツェッペリンを久しぶり

に聞いて。けっこうロック聴け

るのに驚いたけど、なんか

Beatles のコピーバンドに

聴こえた。いつの時代か、

考えさせられた。
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ガール・オン・ザ・トレインは女の物語 [映画]

ブログを書くという意味は分かる。が、

時々、ブログを書くことに何の意味が

あるのかという疑問に憑りつかれる。

それこそ <なぜは なぜ「なぜ」

なのか>という、その前提で意味の

ない疑問なのだが、一種の知的ゲーム

なのだろう。疑問のための疑問に興趣

を感じるらしい。

雨が降っている。雪が降ると街は

雪景色になり、興趣が盛り上がり、

白くなった街は幻想的にさえ見える。

雨はそこへ行くと人気がない。

濡れれば風邪をひいたりと、碌な

ことがないから。子供の頃は雨に

濡れるのは楽しいことで、一種

イベントであって、泥んこ遊びを

しているようだった。

土や水に塗(まみ)れることが

楽しいのは昔は本能のようだった

と感じたのを覚えている。

長靴を履かせられたが、その長靴

に雨が入って、また泥濘に入って

バシャバシャやっていると、長靴

の中も水でグチャグシャになるが、

それも面白がった。それが足が

気持ち悪い、という感触に変わっ

たのはいつ頃からだったのだろう。


どこかで見たのだが、子供から

母親、その他学生・青年男女など

公園にいる人たちが全員、発達

障害者かHSPと軽い神経異常者

で、それを掻き分けるように

公園を通り抜けようと駆けるよう

に足早に進むのだが、こんなに

誰も彼もが不定愁訴な病人に

なったのだという想いに囁かれて

いた。ちょっと考えた思いつきで

もあったかと記憶していたが、

曖昧であることから、起き抜けの

夢でもあったようだ。日本も世界

もそんな状態なのだ、とその証拠

を見た想いだった、あれは何だっ

たのだろう。



この間、久しぶりにレンタルで

DVDで「ガール・オン・ザ・トレ

イン」を観た。一度TVで観たのだ

が、そのストーリーは忘れたが、

記憶喪失と心理的な病理があって、

その印象に惹かれ、また観たいと

思った。その雰囲気に惹かれたのが

最も観たいと思った理由だった。

それはその雰囲気で小説を構想して

みたかったからだ。その一種病的で

心理劇なストーリーなら構想する

だけで楽しいだろうと思ったからだ。

「ガール・オン・ザ・トレイン」

はその意味で日常瞑想の嗜好だった

気がする。

しかし、見終わってみると、生んだ

赤子をバスタブで一緒にいて眠って

しまい溺れさせたため死に、その

トラウマで妊娠したくなくなった

主婦が、殺害されるという事件なの

だが、その犯人の元妻がアルコール

中毒から抜けて、記憶を取り戻し

ながら犯人に気づくというストー

リーだった。

その元妻が会社に通っていた列車

から見える家で、元住んでいた家

の隣?の主婦に起こった惨劇だっ

た。ストーリー進行の4分の3で

結末が見えたし、思ったよりも

意外性がなく、心理の興奮を引き

起こす葛藤劇も謎が弱くて、思っ

た予想通りに終わってやや落胆

した。

つまらなくもなかったのはどうし

て?と考えて思い当たった。

これは女性の監督が撮った映画ら

しく女性の映画だった。女性の

子育てや妊娠への不安、男の浮気

やパワハラへの反発というものが

この映画の底の感情にあった。

その視点で観れたので、その部分

で退屈しなかった。

アマゾンのDVDのカマスタレビュー

でそのつまらなさを書いたのが

あったが、いかにも男性の意見だっ

た。彼は犯罪映画として観たので、

それほど謎でも複雑でもない、見か

けの犯罪ドラマとしてしか観なかっ

たので退屈したのだ。女性の視点が

ないという、ふつうの男性評だった

わけだ。

それでこれを男性版の「マン・オン・

ザ・トレイン」のような趣向で構想

してみようとした僕の計画は頓挫

した。嘘ばかりつくのは女性の心理

描写の方がよく似合って味を出す

ので、男性を主人公にした場合、

まったく違う趣向でストーリーも

心理も変更しなければならないだ

ろう。そこまでこだわるつもりは

ないのだ。

この世の男も女も、お互いをよく

理解しているわけではない。だから、

世界の文化が歴史的に女性傾向に

なっても、男性側の暴力傾向が終わ

るのでもない、という決着になる。

身近な男女でさえ男女格差とか、

男女平等とか言っているのは、それ

だけ男女間で互いに理解が達成

されていないことを示している。

それで世界平和とかプラカードを

掲げても、そんな大見得を切る前

にまず解決すべきことが前提とし

てあるんじゃないの?と思って

しまう。



Girl on the world 

Man on the world 

東西の世界のように無尽蔵にも

深い歴史的無理解が横たわって

いそうじゃない?




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君の飛ぶ空はどこにあるのか [飛ぶ]

僕らはたいして考えずに苦しむ

のが上手だーーーーーー。<発達

障害やHSPに近い人は読むのを

遠慮しましょう。>



人がものごとを確信する時は

ある。いくつもそういう瞬間を

通って来たから知っているが、

それはなにかに集中して、そこ

に突き進んだ結果得られた成果、

というものではない気がする。

もっといやらしい背景が僕には

あって、それが歪んだ鍵を握っ

ていて、運命を、しいては人生

を歪ませている気がする。

そして、それが正解でもある、と。

なぜなら、性格が歪んだ運命なら、

人生もそれに沿って歪むのが正し

いはず。だからと言って、本人は

少しも歪んだとは感じていない。

その歪みに沿うことの方が難しい

と感じているようだ。そして、

それを直覚することができないと

も思っている。いつも自分の想定

外に自分を運ぶのを常にしている

からだ。言っているのは、天邪鬼

な性質のことである。


エンゲル係数が高い。学校で習っ

たように生活費に含む食費の%が

高ければそれだけ貧しいと言える。

借金もするし、金利も高いので

すぐに危険な状態になる。生活の

経済的危機なのだが、それさえも、

追い詰められるようになるとなぜ

か腹が坐って来る。

解決はお金を作ればいいのだ。

始め、その方向に頭が動くが、それ

は簡単な解決策に落ち着く。手っ

取り早い方法を求めるからだ。

しかし、その期限に近づき、いよ

いよ切羽詰まって来ると、ひょっ

こり顔を出してくるのはその危機

迫る状況をなめまわすようにして

遊んでやろうという、もう一人の

自分だ。

彼はそういう機会を逃さないかの

ようで、むしろ待っていたのかも

しれない。困難が重なって息も

苦しい状況を想像するが、それは

自分というもう一人の状況であっ

て本人の素(す)はそれをある意味、

楽しむ機会と捉えるのだ。

これは性(さが)と言うか、癖

のようなもので、たぶん、個性と

いう意味で本来のものなのだろう。

ここまで来たら、苦しい自分に

頭を突っ込んで、そこからどう

するかを考えようというつもり

なのだ。

なぜそうなるのかわかる気がする。

それは滅多にお目に掛かれない状況

だからだ。土俵際で俵に足が掛かっ

ている、そんな瀬戸際。

と思っても、それは自分という限界

であって、想像の内であって現実で

はない。現実はそれに向かう力に

比例してその姿を披露してくれる。

気の弱い者は眼を閉じたり、見ても

認めることができない。それが僕ら

の心理的限界だ。

すると、発想が逆転する。その悪い

と思う、例えば車を失うとかを現実

として、その後のことを考えるよう

になる。

それまでは失ってはいけないと思い

込んでいたが、失っても生活は進む

し、なにかが好転するかもしれない

と、考えを広げることができると、

かえって取集選択する余裕が生まれる。

そうして行った判断のほうが失った

らと恐れてする判断よりも客観性に

勝っているのは感覚でわかる。 

ここまで来るとやっと平常心らしい、

落ち着いた自分が現れる。ピタッと

精神が決まると言ったほうがいい

のだろうか、空気が引き締まる。

そして、なんか面白いことが始まる

んじゃないかと、胸躍らせるので

ある。これは第三者が見ていたら、

まずバカに見える、笑。

逆に、狂人はへらへらしていると、

なるほど馬鹿に見えるが、狂人だ

と知らなければ、わざとへらへら

してるんじゃないかと余裕にも

見えるのかもしれない。

だとしたら、今の僕は狂っている

のかも、少しおかしくなっている

のかも、と言えないこともないの

かも、と。


エンゲル係数が高くても、日本で

はまともに食事ができる。栄養と

おいしさを考えて食事ができるの

は、実際貧しいとは言えないだろう。

始め、車がなかったら不便だし、

運転は好きだから継続を考えたが、

車を持つかどうかは選択の問題だと

わかる。気持ちが切り替わっただけ

だ。少し前まで、なんとか車を維持

しようとしていた自分が可笑しい。

なるようにならなければ、なるよう

になればいいのだ。そうすると、

そのメリットとデメリットを比較

する考えに気が向く。正しい判断が

前もってあるのではなくて、そう

いう判断ができる自分がまずあるか

どうかが決め手なのだ。

そうすると、この苦境?をもっと

深掘りして楽しめないかと余分に

考えたりする。そう考えることが

もう、楽しんでいる一部になって

いる。人はよく遊ぶ動物だ。

それで手っ取り早い解決法はまだ

あとに残しておけばいいとわかる。

すぐに解決しないで、なにか新し

い手法を編み出して、その工夫で

解決できたら、素晴らしいと思う

わけだ。手っ取り早い解決法が

最後にやってもうまくいかなかっ

たら、と考えるのはそうなった時

でいい。それまでにいろいろと

試すことができるのだから、それ

をするのが人生の、生活の有効な

使役ではないだろうか。

金がない、その発想はどこから来る

か。それが根本の(実はその一歩

手前の)誤解であり、思い込み・

先入観による問題なのであるが、

それが見えるようなら無駄な気苦労

はしていない。


人の心理的限界は上下にあるように

思う。子供の頃に命の危機になるほど

貧しさを経験すると、その反動で

金持ちを目指す。この時すでに囚わ

れた自分の心理には気づいていない。

大抵、そうして大金持ちになるの

だが、貧の反動が動機なので、どこ

かで転落するのだが、勢いで強引に

やって来たことを自分では認めて

いないので、転落は夢のことだと

思っている。そして、大破産する。

しかし、そこまでの手腕が鍛え

られているので、大半の人は取り

戻すことが多い。これが上の話。

下は、それほどの貧ではないの

に、先進国だと周囲を見て自分

が酷い貧困にいると思い込む。

そこに囚われると、情がからん

で、よほど恐怖から不安に襲われ

る。盲目になってしまうのだ。

それを飢えた状態というのだが、

これは大金持ちの傲慢さがピーク

に達した時にも似ている。色合い

が違うが同じ飢えだ。

その状態にならないと、どちらも

僕らにはわからない。実際、それ

は病気のようなもので、病の経験

はその苦しみの経験の下でないと

実感はない。

日本で落ちている曲がった釘も

見たことはないし、それをバザー

で売っているのも見たことはない。

が、今日の食べ物しか考えられない、

という状況がこの世界にはあるのだ。

拾った釘を売ろうとするまでの、・・。

それを知っていると思っている。


それは僕らには無関係だ、まったく、

全然だ。が、それを知らないことに

は気づけないでいる。気づく必要が

ないほど恵まれた環境にいるという

事実を知らないからだ。


鎌倉や 

お先 真っ暗 

ああ 鎌倉や かまっ暗や

足元の ダイヤの鉱床は 

源氏ボタルの

夢の 中


僕らに衣食住をもたらしてくれ

るのは、周囲の他人・知人である。

僕らの意・気・情を元気に活性化

してくれるのは、精神や心の知恵

と協力と創造・愛情である、他人

や知人はそれを起こす手助けをし

てくれるが、手助けしかできない

のだ。それ以上は恩着せがましい

のだが、それを求めるのも誤解か

ら生じた善意の同情・憐憫である。

調味料は必ず必要だが、腹を満たす

のは主食である。しかし、情という

調味料は死を前にして、主食の役目

も果たすようだ。何に満足するかは

条件付きでその時、またその人次第

でもあるようだ。ーというように

書くのも(読み手の想像に任せる

ことだから、)曖昧で誤解を増やし

ているのだと気を回してしまう。


羚羊(かもしか)や 

ああ 羚羊(かもしか)や

それかも これかも 

これしか それしか 

ああ なんのこっちゃ  笑


どうして真実はこうも意味深

なのだろうと思ってしまう。

ひとはそこから一つの原理や

理屈を取り出してくるだけで

満足してしまう。もしも、一つ

それを見つけたら、それには

必ず複数の反面が無数に存在

する。大きな側面でもいくつも

あるということだが、なぜか

人はそこを拡張・演繹して自分

から見た世界として、それをそれ

でまとめ上げてしまおうとする。

そして、それを枯渇させて、骨

抜きになったものにしてしまう。

哲学という分野がそれだ。


スルメは僕らのおいしいいものに

加工された価値という食品になる

が、いかせんべいとかにもなるし、

だいたいスルメを見てもそれだけ

で、イカが海面を10mも滑空する

など想像もしないし、できない。

それは知識をどれくらい倉庫に

持っているかという量の問題では

ない。倉庫に入れる前にはどんな

生きたものであったか、どんな

生きた事実であったかという「もの」

・「こと」がそこにはあるのだ。

僕らが感動すると涙するのは事実だ。

どうして感動するのか。厳然とした

事実は何を語るのか。

生きたものは死ぬと保存が効かない。

それの本当の意味は見過ごされて

いる。知識は死んだものだ、概念の

死骸になる。本や情報から得るもの

は知識としての言葉ではない。


兄、 語らんや 

豈、 図らんや 

図々しくも  はかばかしくも 

そして バカバカしくも 

聞く耳 持たんや 

リニア モーターカー 

乗ってみたい

ソニア  誰?

「罪と罰」を書いた 

罪びと(自分)だったドスト

エフスキーは 

人の心は広すぎる、もう少し

縮められませんかね、と言った。

他の人はこう言うだろう、世界は

ひろすぎる、宇宙から、植物から、

微生物から、言い方のあれこれや、

考え方の柔軟さや、スカートの襞

の色合いや、格式のどうのこうのや、

屋根の作りの具合が・・や、電気や

光のエネルギーやら広すぎる、・・

あれやこれや、と。



僕はWaiting、待っている。これ以上

はどうにもならない状況を。もしも、

そういう状況が存在するならば(ない

と思うのだが)、それは僕が唯一

期待できる、まったく新しい出来事

に遭遇することであると思う。

それに適応できなかったら、死を

覚悟しなければならなくなるかも

しれない。それはまったく、まった

くだ、楽しくなく、心を苦しめる

事であるのは十二分に承知している。

わかっているのだ、これまでのこと

で、僕は自分を捨ててきたから。



人間の生物としての寿命は55歳

くらいらしい。そこから動物はすぐ

に死に、老後があるのは人間だけだ

という。それはあとにして、僕は

とっくにそれを生き抜いてしまった。

こんなに長く生きてしまうのは、

計算違いだった。

たぶん、多くの世間と異なるのは、

僕が死をよく認め、恐れながらも、

それを懐かしむと思えるほどに

親しい、愛着さえあるという感覚

を持っていることだろう。そうい

う死を恐れない少数派なのだろう。

だからと言って、好きな冒険でも

無理な冒険はしてこなかった。

精神の崖から飛んだことは4,5回

はあったと思うが(死ぬことが目的

だったことは1回半はあった)、比較

できる人も物もないので、僕の心が

実際にどうなったのかは、今も判断

できない。

ふつうに生活している。鳥にエサ

を撒いたりして。



また、ここに もどる 

< 僕は どこに いるのか > 

君は ここに いる 

そうか 

君も そう 想うか


聞いても 

触れも せで

見えない 世界で

空を 

飛びたい 

飛んでみたい、じゃない 

飛ぶんだ

(こんな危険な気持ちはない。。

体の胸からはみ出て外に出た

感情だ 。。

高層ビルから飛んで、夢で見た

ように地上スレスレで滑空して

空に舞い上がる 。。

それができると確信する、寸前

の気持ちだ。。)



Cool down・・、

場所:  自ブン。


オホホホ  イヒヒヒ 
ウフフフ  エへへへ
オホホホ

すべての時間で 止まらない

自由があるのは 違反だろう。

少し、コマを回して時間を潰そう。

カラフルなWay、

単片な緊張、 そのワンダリング、 

止めてみて カワウソの 散歩 

家出少女の 決心 


そのバックドアの キーを回して 

ホ~ ム 

その手紙を 取り上げて 

今 読んでよ 

なつかしい 汽車に  乗る前に 


・・・・・、バ イ
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ロボティクスの向かうもの [ロボット]

僕らはどこにいるのか

この台詞はどこから来るのか。

なぜくり返し、出て来るのか。

しかし、少しだけ新しい。それは

いつもは「僕はどこに~」で始まる

のだが、今朝は「僕らは」と自分だ

けではない複数の自分から始まった

からだ。その理由がわかるわけで

はないが、それは僕の自分から発し

たことではないとがわかった。

僕らはなぜ一緒にいると思っている

のか、感じているのか。

こういう書き出しは想像もしなかっ

たので、この新鮮な朝のようにまぶ

しい。

朝は4時から起きていようと、画策

して4日目になるのだろうか。そう

決断した理由さえ忘れてしまった。

やがて思い出す事項なのか、忘れた

ままになってしまうのか、今は考え

たくない。

自分が思っていることをどんなに

つまらないと思えることでも、吐き

出すことは一種快感があるのは不思

議だ。自分とは、少しでもいいから、

どこかで格好をつけたり、ドヤ顔を

見せたり、自分はいい奴だと見せた

がる性格らしい。

そこではなんでも理屈をつけて、

それなりに犯罪者ではなく、ふつう

に不特定多数の一般社会の一員だと

言っているようだが、どうもそれを

認めてもらいたがっている微細な

意識がちらちらするようだ。

心に鏡があるのか、そういうもの

を写し取る機能があるのか、人間

の空気を読み取る僕らの反応は

一歩引いて観察すると、そこには

独特な見えないものの流れがある

ようで、それは皮膚からの信号な

のか、心臓の振動や響きからなの

か、顔の表情・声から伝わるもの

なのか見分けられない。

ロボットも人間に近づくほど感情

的な表情を見せるようになれば、

同じように空気を発するのだろう

か。それはないと思えるのだが、

想像でもそれが実現したとして、

そのロボットがした行動の意味は

なんなのだろう、と逆に思って

しまう。

犬は人間に飼われると笑う顔を

つくるし、子猫のドヤ顔も見た

ことはあるが、それが人間の気

から吸収した反応の知識であれば、

ロボットも同じようにできても

不思議ではないことになる。

ロボットが笑い、ドヤ顔をすると

いう状況はまだないので慣れて

いないので、場違いな芸当に

見えるのだろうが、慣れたら、

犬猫のそれを嗤うように気になら

なくなるのだろう。   4 . 14


ロボットは昔はよくわかったもの

だった。それは機械でよく動く

仕掛けの人形だった。

現在では少し意匠が異なり、ロボ

ットは人工知能を搭載した人間並み

の反応ができる体の機械人間まで

進歩した。

犬のロボットはそれの飼い方によっ

て性格が形成され、やさしく飼えば、

従順でよく言うことを聞く犬に、

邪険に扱えば、反抗的で噛み掴ん

ばかりの悪い犬に、とプログラム

されているが、それは人間との関係

しか考慮されていない。犬がどう

考えるか、飼い主との相性はある

のかという、また犬の人の100万倍

利くという鼻の特性についても、

考慮はされない。当然、知られてい

ない犬の感覚については0に違い

ない。それは自然な犬にはなにかが、

大事な何かが欠けている。

そこでAI(人工知能)のロボット

の知的な計算の優秀さに目を奪わ

れているが、僕らは神経障害の

原因を100年前から突き止めて

いないで、向精神薬という症状を

軽くする、抑える対処療法の薬を

開発することで誤魔化しているが、

自然消滅したノイローゼという

時代の流行病もそのままで今日に

至っている。つまり、AIの場合は

バグとか言ってボカすのかもしれ

ないが、脳が人間に近づいたのなら、

それが本当なら、その障害も出る

はずだ。それは機械だから心配ない、

と言うのなら、それこそロボットは

人間にはなれないと言っているよう

なものだ。そして、問題は浮き彫り

になる。計算を間違えないロボット

は人間ではないと言っている。

自分という心理的な防衛機能を

組み合わせたら、ロボットはいつか

暴走する可能性がある。それは人間

の歴史が証明している。

それでは人間のために働いてくれる

ロボットの役目は果たせない。

なので、ロボットを人間と同じ自分

を追加で機能させることはできない。

これがロボットの矛盾だろう。

ロボットに自分が加わったら、彼は

「私はなぜロボットで人間ではない

のか」と初めて悩むことができるだ

ろう。「自」ができたので、対立し

た「他」を創出することもできた

のだ。そこからその比較が発見され

て、抽象化して問題をも創出でき

たのだ。

しかし、AIの関係技術者たちは、

いかにロボットを人間化するか、

感情を持たせるには?人間性の

感覚を発揮させるには?と方向性

を考えもしないで、発見し、発明

しようとしているのではないだろ

うか。人間と同じ人間コピーを

ロボットで実現させることは、

学問的価値はあるだろうが、それ

を行動する機械に組み込むことは

書いた通り、矛盾なのだ。

矛盾というのは森羅万象の世界を

参考にする限り、解決すべきもの

かどうか、どうもついにわからない

ものだ、が結論のようだ。

解決することで、その枝葉で、また

その別の幹で新しい矛盾を発生させ

る培養器のようなものが矛盾という

もので、それは自然のシステムだ、

と言いたいようだ。

だとしたら、それはものごとの解決

の完全解決は不可能だということで、

都合のいい所を妥協して部分解決す

るしかない。

だから、文明はそうやって、知識

ばかりを膨大に増やしたため、それ

を一分野でまとめて扱えるように

とそれぞれの専門家を増やさなけれ

ばならなかった。そのうちアナログ

ではビール瓶の栓の開け方を教わる

のに、日常教育という課目さえ

設定されて、教室で栓抜きの道具

を初めてみる子供たちの眼が輝く

のかもしれない。

未来は栓抜きなしでビールは

飲めるに違いないから、栓抜き

は骨董品なのだ。そうすると、

それを習うのは近代歴史の日常課

になるのだろうか。


発達障害者の数学の天才でもあっ

たユダヤ系ハンガリー人エルデシュ

は数論、組合せ論、グラフ理論を

はじめ、集合論、確率論、級数論

など幅広い分野で膨大な結果を

残した。特にセルバ―グとともに

素数定理の初等的な証明を発見し

たことは有名。

彼は生涯で500人以上の数学者と

その数学者の家で共同研究を行っ

て1500篇の論文や共著を発表した。

しかし、彼は電車にしか乗れなかっ

た。共同研究する数学者の家の

最寄りの駅までは行けたが、バスに

もタクシーにも乗れなかった。迎え

が来るまでひたすら待つのである。

あとはその数学者の家で問題を解く

まで住み込むのだ。問題に懸賞金

があってもそれを相手にやってしま

った。また次の数学者の家に行って

暮らすのでお金は要らなかったのだ。

抜群に抽象思考に優れていたが、

行動に結びついた現実思考はできな

かった。相手の数学者にからかわれ

て、缶切りと缶詰を渡されるのだが、

彼は缶切りを使って、どうやっても

缶を開けることができなかったのだ。

これは僕らが当たり前に缶切りで

缶を開けるには、単なる思考だけで

は体への応用ができないことを示し

ている。だから、もしもAIが脳の

機能だけで済むと科学者が考える

のならば、それはなにかが欠けて

いるのだ。それは行動に結びつく

思考との関係ばかりではないだろう。

AIはある意味で一種の天才だろう

が、それは人間としてはいくつ

ものなにかが欠けた、知を孤立させ

た欠陥品なのだ。


僕らは どこにいるのだろう 

僕らは どこに 向かうのだろう 

これが 感傷なら 

気が 楽なのだが
             4. 25



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あるあるノーベル経済学賞 [経済学]

今日、女房に人生で初めて言った

言葉があった。

「ともかく喋りたくてしょうが

ないんだよ。自分でも嫌になるん

だが、止まらないんだな」

ともかく、TVを観ながらでも、

その感想や意見を自分でも邪魔だ

と思いながらもべらべら喋る。

結婚式から半世紀近くになるが、

これはうちのと緊張関係が少し、

破れて僕が優勢になったせいも

ある。

また、体調の不調が回復して

好奇心も復活して、DVD・漫画・

この世の本の全般・国際ニュース・

諸々に興味が湧いてしょうがない

という状態だからだろう。

うちのは昨日、自転車に乗ってい

て同じ自転車同士でぶつかって

足の筋肉痛になっている。

今晩は卵と豆腐とチーズで以前か

ら僕がそのうち作るといって、

作っていなかった料理を晩の

おかずにした。晩飯とかは20年

以上作って来た経緯があるので、

まず30分で作ってしまうし、

そのレシピも記憶に有り余って

いる。その気になれば、と言っ

てもならないが、料理の新作も

作れるだろう。

フランス料理に入ろうとして、

いや和の食を固めるべきだろう、

と引き返してしまったが、少し、

やっておくべきだったとは、今

わずかにだが、後悔している。

調理もやりたくて始めたのでは

ないから、そこまで懲りたくは

なかった、当時は。

なんでもやっておいて損はないと

いうのは本当で、長い時間のあと

にならないと本当の結果は見えて

こない。

それでも僕が学校の勉強は嫌いで

してこなかったのは、正解だと

思っている。今になれば、なにが

勉強したいか、見えるからだ。

そして、それは学校で教わる体の

ものではなく、僕の視点から本や

資料からの情報を選ぶべきものだ

からだ。

今日も今日で、海老名文化会館の

駐車場を借りた関係で隣の図書館

にも寄ったのが偶然なのだが、

ノーベル経済学賞(根井雅弘:著)

という本を読んでみた。

以前、ブログでその経済学賞そのも

のを資金をもらって、なかった賞を

つくったとしてノーベル賞委員会を

批判したことがあったが、その冒頭

で同じことが書かれていた。

そして、わかったのは厳密には、

ノーベル経済学賞は存在していない、

ということだった。

いや、世界で、日本でもノーベル

経済学賞として、ニュースで新聞に

も発表されているではないか、と。

その通りなのだが、それは通称で

正式名称ではない。正式には「アル

フレッド・ノーベル記念スェーデン

国立銀行経済学賞」というらしい。

これはスェーデン国立銀行が1968年、

創立三百年を迎えた時に、ノーベル

財団に経済学賞を寄せたから、それ

が加わったというように見えたらしい。

実際、スェーデンの王立科学アカデミー

が受賞者の選考に当たっているので、

通称ノーベル経済学賞となってしまっ

た。ノーベル財団の専務理事は言葉

を残している「経済学賞はノーベル

賞ではありません。ノーベルの遺言に

ない。記念の賞です」と。くり返す、

厳密には、ノーベル経済学賞は存在 していない、ということだ。

経済学というのはまだ学としては

これが正しいと言えるほどの成熟度

には達していない。それどころか、

社会の、また人の動きに左右され

やすく、現代では社会学との境界

も曖昧になって来ているように

見える。


小田急海老名駅の北側の広い舗道を

歩きながら、鳩が三羽いて、一羽

が邪魔なのにすぐ前を歩く。鳩は

鈍そうに見えるが、図太いのだろう、

エサでも貰えるのを期待している

らしい。そこで少し、邪険にして

みようかと、ちらっと僕の気が

入った。すると、1㎝くらい羽が

広がって飛ぶ態勢を見せた。気づ

いて、気を引っ込めると、鳩は横

にちょこちょこ離れて行った。

彼らも同じだ。人間とのつきあい

を過去から積み重ねた動物は警戒

心がある。

また、セキレイは気が強く、早く

に慣れ、鳩も慣れたのだろう。

だが、警戒して飛び立つ瞬間は

逃さないのだろう。ゴキブリも

同じだ。人間の動物に対抗する

狩猟の気は一瞬で確実にキャッチ

して外さない。生命線だから。

この人間の気の使い方は、まさに

殺気と言えるもので、それは戦争

の要因の一つになると考えられる

ものだが、それはまた別の機会に。



アダム・スミスの「国富論」は

経済学の発祥と言えるほどに古く、

また経済の法則の初めを示したと

思われている論だが、中身には

分業は人の幸福を奪うものだとも

書かれているらしい(未確認)。

しかし、そんなことは教えない。

アダム・スミスには「道徳情操

論」という厚い本もあって、本人

はそのほうが重要に思っていた

らしいが、「国富論」のほうが

有名になってしまった。

ニュートンも「プリンキピア

(原理=万有引力と数学と天文学

とを融合させた)」が有名だが、

本人は錬金術師で、また贋金を

取り締まる庁で働き、晩年まで

そこの庁長だった。そして、聖

書研究の神学が生涯の学業だと

思っていた。死後残された論文

も聖書関係が最も多い。

人は自分がこれだと思ったもの

ではないもので、有名になったり

する。その人の本意ではない、

それが人生だったりする。

とかくイメージは先行しやすい。

それがマスコミや広告媒体などを

通じて知らされたものは信用なら

ない。

ところが、反対に初対面の人に

対する第一印象はまず外れない。

しかし、その人次第で後天的に

自分で学習してその(多くは)

欠点をカバーするから、付き合う

うちに悪い印象が薄れる。

それはその人が緊張しすぎたり

すると、急に第一印象の正体が

現れる。

見せられたものは仮面でイメージ

で、無心に見たものは真実である

ことがこの世では反対に逆の様相

に見られることが多いようだ。

これは誰もがなんとなく知ってい

る、身に覚えがあることだろう。


簡単な事って 

つまらない 

へそ曲がりは わかりきったことを

どうにか 難しく考えて

それを 謎として

謎解きを 楽しもうと

するかのようだ 

・・・



変人が  増えた  ・・笑

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無手勝流でも亜流はあるか [無手勝流]

昔、無手勝流という流儀が

あったそうな。どんな格闘技

か、剣技かは知らないが、その

発祥は塚原卜伝らしい。

小舟の上で決闘を申し込まれた

卜伝が船を陸につけて、そこで

やろうとか言って、相手を先に

陸へ上がらせて、すぐに竿を

さして小舟を陸から離した。

これが無手勝流(卜伝流)、

戦わずして勝つ、と言ったとか。

兵法の一種でもあろう。そこか

ら武器を持たず、平手で相手に

勝つ工夫を無手勝流と言われた

とも。

これは前もって用意していた

戦法ではなく、その場での思い

つきが大勢だろう。真剣勝負を

していた時代だから、その場を

生き抜く工夫は気持ちから怠ら

なかったのだろう。

なぜこの発想になったのかと

いうと、パソコンの前に坐った

からだ。書くためだが、その

準備はできていない。なので

逃げてばかりだ。なんやかや

理屈や小細工の出来事を並べ

ているうちに気がついたことを

書き連ねてゆくのだが、99.9%

失敗しない。なにか気がつく

ことはあるだろうから、それは

当然に見えるが、実際は飛び込み

営業のようなもので、売れるか

売れないかは、その時に出会った

相手とこちらの営業トーク次第。

相手の反応を予想した受け答えを

想定したトークを覚えているから、

営業マンには素人は敵わない。

この、書くというのは意識した

ことはなかったが、営業トークを

するのに似ている。ただそれは

決まったトーク、覚えればいい

トークがあるわけではないことだ。

誰でも書くことがすぐに浮かぶ

わけではないから、どうしても

花言葉とか、辞書からとか、誰

かの詩篇からとか1年くらい続け

られる題材を選んでくる。

それで5~6年は続けられる

かもしれない。

なにかそれなりにテーマを書く、

というのは4コマ漫画を毎日

連載するような大変さがある。

アイディアを毎日振り絞らなけ

ればならないからだ。ところが、

それをやっている漫画家は多く

いる。それが得意ということで

はないだろう。最初は苦労した

はずだ。うんうん唸ったかも

しれない。ところが、ある程度

続けるとなにかコツでもわかった

かのように、どうにかアイディア

が湧くものだ。これは偶然では

なくて、また才能でもなくて、

日々それについてアンテナ(神経)

を張り巡らしている、そういう

生活になるからだ。なんでもかん

でも漫画のネタにする思考回路が

出来上がり、それを無意識にも

溜め続ける。見るもの聞くものが

漫画のネタだと気づくのもこの頃

だ。そう、日常のことに気を配れば

ネタはどこにも転がっている。

でなければ毎日書けるものではない。

逆に僕らは日常の豊かな4コマの

ネタを見るようにはそこにあるもの

に気づけていないのかもしれない。

僕もこの年来には気づいていたが、

無意識になにかを考えていて、そう

いう時間を設けている日常だと知る

ことができた。今は毎日書く気には

なれないが、数年前は1日に数回

ブログを書きたいくらい、テーマが

浮かんだものだ。

集中というのは没頭することで、

書いているテーマに入り込んで、

周囲の状況は他人事になってしまう。

5,6年前には絶頂期だったろう、

朝になってもまだ書いていて、窓

の外を通勤の人が歩くようになっ

てから、もう終わろう、と終わら

せたものだ。4年前の詩を偶然

見たが、息の長い詩でこれは今は

書けないな、と思った。

今はうまく言えないが、方向が

少し変わって、人生や世界という

全般を扱いたいと思っているよう

だ。

そういうのが無手勝流の果てなの

だろう。自然の流れであって、自分

で決めるものではないようだ。


君よ、 知るや 

この正座に 打たれる

金槌の 雄叫びを 


なんだか意味のないことを書く

のが平気になっただけだ、と

言われても答えようがない。

詩って意味がなくてもいいじゃ

ない、と思っているのだろう、

ある部分。

直感もよくあるのは、なんでも

ない所から価値や景色のある

処まで貫いて、言葉を生むこと

だ。すれば、それを言葉に結晶

させるのが詩人といった処か。



風月は

さにもあれ こにもあれ 

にっちも さっちも 

あれ よ 忘るな 

盥(たらい) 叩いて 

百人の 一茶 ここにあり 

騒ぎ 五月蠅(うるさ)きも

旅の 醍醐味 ここに 

あり 

        :陽秋






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SAY、ハロー 朝 [朝]

昔の曲を聴くとどうして僕は

ここにいるんだ?と呟いてしま

うんだろう。

ジョンレノンが言ったように、

ビートルズは夢の中に居たんだ。

それは世界という現実が夢を

象(かたど)っていたからだ。

完成された曲から、今のように

ライブで他の歌手がカバーして

もこだわらずに聴いていられる

ようになったのは、進歩したとは

言えないが、いろいろな歌い方も

許せるようになったと思う。

こうしてこうでなきゃ、この声

でなきゃ、この歌い方でなきゃ

という枷が外れると、雑種の

動物園のように曖昧な世界に

出たことがわかる。

それは裏返しに自分の青春の

形を見る、ということでもある。

愛するということが、いかに

ふつうのことであったかに思い

至る。そして、こう思うように

なるとは想像もしなかったこと

に、サプライズのプレゼントを

もらったのではないかと考える

のだ。

現実であるからこそ人々が夢を

見るようになる、そこに音楽に

合わせて足踏みをして、手を打つ

という拍子を取る。

僕はその中でまるで膜があるよう

に夢に染まっていた。それは夢の

中からだったように、現実とは

隔絶していたとは気づかなかった。

ガラスの向こうの世界だとは考え

もしなかったわけだ。

向こうがあって、こちらがあると

思っているのだが、音楽と同じ

ように初めから和音が響いている

とは知りもしなかった。

アメリカナイズしていると同級の

誰かに言われ、とても驚いたもの

だ。それが自由の波の一派だった

のだが、そのまま自由の気風を

求めて考えを進めたもんだ。

誰かの自由な気分を真似して、

その気になっていただけなのだが、

それがポップ音楽という自由の

西洋文化の風だった。

それでも「学ぶ」という皮膚の

ように感じる意思も性質もあっ

た。大学へは自由を求め、4年間

のともかくも思索する時間が欲し

かった。そして、世界はひっくり

返った。無の世界に落ち込んだ。

気がついて、また2,3日後にまた

落ち込みそうになるのがわかり、

カーテンの模様の一枚の葉を見つ

めて、その周囲が何も見えなく

なり、それでも耐えて、やがて

瞳孔が戻るように同じ部屋にいる

自分を発見した。無は、意識しな

かったが、やはり恐怖だったのだ

ろう。経験しないものは恐れよう

がないのだ、知らないから。

これは10年後には疑問になった。

そして、それは恐怖が真に恐怖に

あるのではなく、恐怖とは実は

恐怖を恐れることにあると知る。

それは僕らの心の傷は本来つか

ないものだと知ることになる。

恐怖がなければ、不安も生まれ

ない。心の傷は自分が反射して

傷ついたと感じることから来て

いる。それは自分が認めたく

ないことを一様なショックとし

て心に刻みたいからのようだ。

それに気づかず、相手からつけ

られたかのように感じるが、

それは感情の反射によるもので、

僕らはその感情に弱い。受け止

めるだけでなく、傷の記憶とし

て、痛みを添える。当時から

そう思っていたが、そうではな

いかもしれない。うすい膜くら

いは自我が防御で用意した気も

する。その反動は人の気持ちを

無視することになるので、人間

関係で軋轢を生むことになる。

それでも自閉気味というのは

避けられずに、選択されるだろ

う。自分で鳥かごを作って、自分

でその中に入るようなものだ

から。そして、苦しみも悲しみも

遮断してしまうのだ。人はそれで

自分がメンタルで強くなったと

勘違いする。そう考えることも

あるだろう。

僕らは正解を求めて、身を正すの

が正義だくらいに考えるが、答え

を出すことと修身というのは別々

のものだと覚えていたほうがいい

と思える。

かつ丼の正解はそのレシピにある

だろうが、レシピは食えない。

食ってうまい味を覚えるのが修身

のマナーのようなものだろう。

こんな時にどうして自分は黄昏

(たそがれ)るのだろう、と思う

時の自分を眺めて、それから人生

の意味がやって来る。それまでは

未熟な自分という子供を幾人も心

に飼っているのかもしれない。



君は 

寂しがる ことは

ないんだ 

どこにもいない人間 なんて

詩の中にしか  いやしないよ 


ひとりで 坐っているつもりでも 

それは 誰かの 坐った

温かみの 残る場所だっ

たり する 


結局  僕らは

ひとりには なれない 

心は 黙っていても 

友や 憧れを 

そんな 自分の影を

つくって  君を 

慰める もの 


君は 愛する必要がある、

と 感じるようになる

いずれ 



ゆるくなる 


ゆるく 理解するようになり 

愛されたいとは 

考えなくなる 

なぜ 

こんなに 人を 

愛したいのか 

わからなくなる 

それは 君を 後押しする

ものが いるから 

だったら  もう 

生きる理由は 

探す理由も なくなり

生きようとする



それが ワンセット 

その ワンセットがあれば 

いくらでも 生きて行ける 

救われないことを 

恐れずに 



見知らぬ鳥が曇り空を背景にして

飛び去ったかと思うと、また現れ

て、長い尾を見せて翼を動かす。

そうして急に僕らは気づく。

こんな風にして音楽を楽しめた

ことはなかった、僕は世界の一員

になったのだ。

世界のハンバーガーを全部食べる

気でいるみたいだ。僕のような、

君のような、あなたのような、彼

のような、彼女のような、誰かの

ような、叫び声!?

ニセコの雨が 降るだろうか 

茶色の 滴(したた)る タワー 

電話の鳴る サンショウウオ 


君は 

OW NO!

もう 起きてるかい! 


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老後と自然の思想そして真実 [自然と人生]

36.5℃。微妙な発熱。

37℃までは熱じゃないって、強気

な女性が言っていたが、個人差で

平熱があるので、例えば、35.6℃

とかが平熱なら、1℃高いので、

熱っぽいだろう。

顔がむくむような、熱っぽさを

感じるが、静かに過ごしていれば、

一時的に熱が上がることがあって

も、すぐに収まって、体の調整も

数日で終わる。それがこれまで

だったので今回もそう変わらない

だろう。

微熱の軽いだるさは、無理ができ

ないのを知らせるので、義務感に

捕われず、好きなことをしていれ

ばいい。それは不調の中とはいえ、

それなりに幸福感を感じさせる。

思い切り集中して仕事をこなす

とかしなくていい機会が与えられ

たのだから、この1,2日は老人

を楽しめればいいのだ。

このだるさはまた、薬の所為でも

あるから、気を許して寝られるも

のなら、眠ってしまえばいいのだ。

体は具合が悪い時は、睡眠時間が

足りていても、また寝られてしま

うものだから。


老後というものを僕らは当たり前に

来るものと考えている。長く生きれ

ば、当たり前なのだと思うのだから、

そう考えるのだが、最近その老後と

いうものが生物でヒトに特有のもの

だという考えが現れて、その本が

売れている。図書館で予約して、

昨日か、借りられたのでそれに

ついて近日に一考してみたい。



僕は老化というものが避けられない

ものであるとしたら、通常に考えて、

長生きすればするほど手足や頭の

考えなどの退化・障害は進んでしま

うのだから、長生きしたいというの

は考えのない能天気な希望だと思っ

ていた。

そこで早めに死んでも、それが理不尽

でなく、無理のない自然なものなら

そこで死を選択するのは、当然な

ことのように考えていた。

しかし、技術が進んでそれがロボット

機械や化学薬品の発明であったり、手

足の代替であったり、人工細胞の内臓

の交換であったりの医療の革新や、運

動能力の更新であるなら、金はかかる

が、それも悪くはないと思い始めた。

それは同時に長い目で見れば、僕ら

が人間性を失い始めて200年は経って

いることを思えば、それをさらに更新

して、僕らは人間性を失うことに思い

至った。

科学者の考えていることは、脳さえ

残せば、あとは機械で代替が効く、

ということだ。これは数学の根本思考

とその延長である脳が主体であると

いう人間機械的な考えになることが

反省されていない。

皮膚や骨、そして最初の脳であった

腸の、脳の2倍とかの神経細胞の働き

を金属に任せてしまうということだ。

または人工のファイバーのような

無機質の無神経な代替品で間に合わ

せることだ。人間の脳が生まれるま

でにその生活の指針の役目をはたし

てきた神経細胞を無くしても、脳は

今まで通りに働くはずだという考え

がそこにはある。

僕にはそれが信じられない。睡眠や

運動には体と切っても切れない生存

のための要素があり、そこから伝わ

る感覚は地球の全哺乳動物を支えて

来て、今も支えているだろう。それ

は心は睡眠時に夢を見て心のストレ

スの軽減を図っているという信憑性

のある考えを否定するように思える。

そう言うと、脳に休息の時間を与え

ればいいだろう、という声が聞こえ

るが、問題は体の内臓などの神経と

脳神経は連動しているということだ。

その半分を取っ払って、人間は正常

なこれまで通りの思考が続けられる

か、という疑問だ。

中間を端折ってしまうが、長い目の

先にはただ人間がロボットになると

いう、これまでの常識のような当た

り前の感情、通常の感覚というもの

が働かないのであるから、そこから

失う人間本来(これまでの)のもの

があるのも当然なことではないか、

ということだ。

そういう感情なり、感覚なりが

失われるか、希薄になるのであれば、

僕らはふつうに元の人間とは変化

した、知性に偏向した人間、(今を

標準とするなら、)そういう歪んだ

人間に変形してゆくはずだ。

そうして遺伝子もそういう情報ばか

りが伝えられて、進化は進行する

だろう。僕らは微生物から植物、

動物、昆虫、ウィルスまで1000万

種以上の生物・無生物の関係で生き、

生かされている。この多様性を失う

方向を選ぶことはその多様性の関係

が不明である(これからも)ことで

危険であるということは避けられな

いだろう。

自然という思想にならない、その

あり方の方向性がそのまま自然と

いう思想であるのを理解しなければ、

自然を理解したことにはならない。

僕らはそれを言葉化すれば理解した

ことだと誤解している。僕らは人生

で何度も「言葉にならない」経験を

してきたにも関わらず、依然、言葉

が理解の中心だと思って、そこから

抜けられない。

それが自分(その裏返しが知性とい

う<双子に似た>性格)の本質の

要素であってみれば、それも自然の

なせる技で仕方のないことなのか。

ギリシヤの神殿の柱に書かれていた

という「汝自身を知れ」という言葉

はソクラテスの比喩を思い出す。

彼の曰く、僕らは洞窟で真実の灯り

に照らされた僕ら自身の影を真実

だと思い込んでいる。(そこに自分

がある、と)しかし、振り向いて

見さえすればそうではないことが

わかる、と。

それはまた地動説をも思い出させる。

僕らは毎日、太陽と月の運行を空に

見ている。だから、太陽と月がこの

地上を回っているのであって、僕ら

は地上で動いていない、と(天動

説)。

それらは同じ疑問を提出させるよ

うだ。それは僕らが見たり聞いた

りしたものであってみれば、それは

僕らという主体が外界に対して、

そのままを記述したものだから、

主体と外部のものという相対を

示している。相対なものは、常

に変化する可能性がある。変化

しないのが真実であるなら、僕ら

が知性を志向して、従い、それを

信じる限り、誤解は常に避けられ

ないものとなる。

だから、僕らは自分のない世界が

信じられない。それは自分が認め

るものが神であれ、何らかの宗教

であれ、偶然流れ着いた流木で

あれ、偶然運のいい時期に飼って

いた猫であれ、それらを神棚に祭り

上げたことで、それらを相対的に

信じたという事柄に過ぎない。

信じたというのは、それを「絶対」

と思ったことであり、現実世界に

絶対があるということが、そもそ

もの誤解でもある。

そして、何も信じれるものがなく

なったと言っても、僕らはなにか

を信じる必要がある。それは輝く

金字塔のように事実だ。これが真実

かもしれない。信じるもののなく、

信じるものを把握しようとする。

その矛盾をどう生きるかが人生で

あり、いつも変わらない人生の難し

さなのだ。


もう一歩言えば、悟りを開いたブッダ

はその始祖ということもあり、世俗

に戻れず(希望はしなかっただろう)、

また世俗で成功した者は現実の煩悶

の中でブッダの心の清明さに憧れる。

つまり、ブッダもこの地上の矛盾を

避け得なかった。ブッダの死後、

大乗の仏教が大成するまでに700年

近く経っている。大乗の仏教が唯一

の煩悩として認めた、世の人を救う

(衆生済度)という標語は、悟りに

至らぬ者がこのままでは廃れそうな

当時の仏教を救うためのプロパガン

ダのようなものだ。

それは仏門修行に励む者に目的を

持たせたかったということもある

だろう。

あとは歴史の事実を眺めればいい

ことだ。阿弥陀如来とかの如来思想

はブッダの経文にはないだろう。

法華経は大きな如来思想であり、

哲学的な止観の物語であり、それ

は言葉を信じる者たちのブッダ新

解釈であったはずだ。

悟りが何かについては(その係わり

合いの何かについては言えても)、

言えるはずもないが、大乗の思想が

それではないとは、気がついた者は

誰でも言えることだと思う。
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ねこ瞑想と美しい空 [日記]

それなりに運動の意味で歩いて、

5000歩を越えたので、寝られる

つもりだった。昨日も、一昨日も

寝られたので、そうなると思っ

ていたが、かなり興奮している。

体が炎症を起こしているのだろ

うが、実際にいろいろな情報が

頭の中を飛び交って、それに

好奇心が強く刺激されて、寝て

いるどころではない、と起きる

のを促されているのがわかる。

それはブログを書け、という

ことではないのだが、つい今の

状態を確かめたくて、坐ってし

まう。パソコンを開けば、いろ

いろな情報を求めて、情報サイト

のサーフィンを始めてしまう、と

いうわけだ。

細切れのテーマばかりで、印象

情報だけなので書けるに至った

テーマはない。

すると、なにも書かないでジッ

としていよう。足元が冷えるので、

セラミックヒーターを点けてみた

りする。なにも思い浮かばない。

それにしても最近は、知的興奮に

見舞われるようだ。新しい情報に

そこにアプローチする機会ができ

たことに嬉しくて興奮するので

ある。完成とか、それなりに網羅

してまとめようという気は、あま

り起こらない。勉強したくない

から、読書でさえ、情報のピッ

クアップしか考えていない。

読んで楽しいものなど100冊に

1冊だと思っている。すべて

マニュアルを読むように、如何

に素早く情報を本から吸収する

かに掛かっている。

それで今日も悟りは量子力学だ

と書いている本を購入した。読み

たいとか、新しい考えだと思った

とか、感心したからではない。

批判するのにちょうどその都合の

いい項目が並んでいて、説明が

加えやすいからだ。図書館にあれ

ば借りるのだが、電車を利用して

借りるくらいなら、廉価で中古の

本屋にあれば購入した方が経済的

だ。本屋にあったのを一度帰って

調べてから、購入することにした。

「錯覚する脳」という題だ。

「脳はなぜ心をつくったか」とい

う本を書いた人で、これもだいぶ

前に購入したもので、これから先

に読むべきだろう。と言っても、

思い出す前にもう購入してしまっ

た。人生はそんなもんだ、という

洒落めいたことも言ってみたく

なる。同じ本をダブって買ったの

ではない、まだよかったではない

かという慰めもあるが、もちろん、

慰めになっていない。

本をアマゾンで調べていて、面白い

本を見た、「ねこ瞑想」がそれだ。

「毎日5分ねこになる」「ねこ写真

を眺めながらニャンとも幸せ」とい

うもので、すぐに、あ、理に適って

いると思った。

それは瞑想への導入としては優れて

いるからだ。猫が好きなら、それを

利用するのはうまい手だと言える。

始めは猫の映像ばかりを思い浮かべ

て悦に入る、ということになるの

だろうが、人は同じことを続けては

いられない。映像を結ぶにも軽い

集中が要る。それはやがて切れる

時があり、隙間ができ始める。

猫は人間のように思考するのでは

ないから言葉はない。もっとも、

人間に対して要求するのに必要

なので、ニャーという対人間語を

発明はしたが、・・。

猫同士では鳴かないから、どうにか

交信しているはずだが、一緒に暮ら

していないので、わからない。

犬はほんとうに面白い。その笑った

顔は知っているだろう、まったく

傑作だ。悲しそうな顔もして見せる。

それをなにか失敗した時でも演技で

してみせるから、賢いのか、偉いの

か、ズルいのか。面白い。見れば

参る。降参したくなる。


君が  三度の飯 よりも 

悲しい顔の  おたふく雲 

笑う顔の  チンドン屋 


見かけなくなったねぇ、チンドン屋


能登半島地震の復旧がずいぶんと

早いと感じる。1ヵ月と10日で

もう仮設住宅どうのこうの、近くで

店舗を借りて営業開始だの。東北の

3.11地震の復旧が長く感じたのは、

やはり原発事故のためだったのだ。

それで思い出したが、近所の246号

線の交通事故だが、明け方の事故だ

ったが夜には信号を回復させてし

まった。信号機本体は壊れていない

ので、代わりの金属の電柱を持って

きてそれに取り付けて、開通とした。

明日になるかと思っていたので、

手馴れている。それはそれだけ事故

の件数が多いことかもしれない。

その日は4時には起きたので、ごっ

つう眠かった。図書館の駐車場で

25分ほど仮眠したが、眠れなかった。

この時もなにか、脳が興奮していた。

しかし、車の窓から眠いぼんやりし

た頭で見た、空が美しかった。

こんなにすっきりしない頭の調子で

見たほうが、ただ綺麗だ、ではなく

美しいとまで感じるのに、なにか

場違いな思いだった。これだな、

これは山を登って、疲れ切って、

考える力もなくなって、ただなんの

想いもなく見る景色がそのまま記憶

される体のシステムがあって、下界

に降りて、少ししてから思い出すの

は必ずそういう時に観た景色の美し

さなのだ。眠くてなにも考えられな

い状態だからこそ、ありのままを

見るというのに達したのだ。

意識はしないが、それが本来は

見る、という意味なのだ。

座間図からの空-1.jpg

写真で見ても素晴らしいと思うの

だが、これは僕のその時の記憶を

なぞるからだろうか。

なんでわざわざ美術館に絵なんか

見に行くのだろうと思った今の

瞬間だ。

月を見ればいい、星をみればいい、

空をみればいい、猫を見れば、・・。


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