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知恵の根幹は今ここにある [知恵]

何をなすべきか、ということ全般が

今は霧の彼方のような掴みどころの

ないものになって、空中分散して

しまったのではないか、と訝る現在

が続く。

はっきりしたのは全米TOP10大学で

必読書の第1位がプラトンの「国家」

で2位がカントの「純粋理性批判」

であることから、その批判を思いつ

いたことくらい。

なにか大きなテーマを見出したと、

その時は感じたが、また途方もない

徒労を見出したな、という気分にも

させてくれたとも。

次第次第に、回り道をしている暇は

ないぞ、と言われていて、それは

わかっているが、と答えようとして

また憂鬱になる。

憂鬱になると言って、鬱にならない

ことは知っていて、この処その気分を

味わうには人と会う機会が少ないの

で、無理な話なのだ。

そこで戯れにでも憂鬱という言葉を

発すると、少しは憂鬱への郷愁の

ような感じを思い出すので、そう

してみた、だけなのだが、それだけ

でも嬉しいのは、おかしいだろうか。

世捨て人というのは世を捨てた人で

はなく、世から捨てられた人だと

小林(秀雄)が言っていたが、世は

人を見捨てないように動くのだろう

が、その人が自分の過ちに気づくか

どうかを見るために村八分にして

孤立させることはある。これは

家庭内でも起こることだろう。

そして、見ないようにして見ている。

誰かが気に掛けてはいるのだが、

本人がそれに気づいて反省しなけ

れば、そのままの状態に耐えられず、

やがてその本人から世から離れる。

孤独な一人の生活を始めるのだろう。

まだそれでホームレスになる人は

まともかもしれない。最後の処で

社会のシステムとつながっている

からだ。

僕がここにいる訳はしっかりした

理由があるからだ。つまり、それを

承知しているから、僕は孤立したり、

そのために孤独を感じたりしないの

だが、それは精神の内面という世界

での出来事の上で、実際の現実社会

とはあまり縁がない。

そして、現実という場面にいつも

ヒリヒリしたものを感じている。

これは何かになろうとして、何物に

も(また何者)なれないことを示し

て、この世との隔絶観を意味している。

自分を持つという状態が、自我を立て

て情意に拠りどころを求める性質から

僕らは孤独になってしまい、その感に

責められる。それは安心できないと

いう絶望が根底にあって、それこそ

は存在とか言葉を使っているが、

僕らの根底を揺るがしかねないもの

だからだ。

どういう意味か?

例えば一つの例で言うなら、::

僕らは便利さから数字を、また数学

を編み出した。円周率(Π)を考え

てみよう。

率だからそれを数字で規定しようと

いうことだ。10を3で除算すると、

10/3で書くのは済む。これを少数

で書こうとすると、たちまち3,333

3333333333333333333333333

33333333・・・・とキリがない。

それが10/3のように書ければいいが、

Π(パイ)ともなると、3.1415926

5358979323846264・・・とこれ

は10/3というように短略化して書け

ない。

上のΠの数字は記憶だけで書いたので、

間違っているかもしれない。24数

あるのでたぶん、平気だ。

小学校の時の百科事典に載っていた

ので暗記した。古い記憶は消えにくい。

60歳以降に120ケタまで暗記したが、

2,3週間ですっかり忘れた。

さて、このΠ を使って目の前に書か

れた円の円周を出すことができるが、

おかしなことに気づいただろうか。

円はきっちり書けているから、その

長さはきっちり決まって数字で

出て来るに違いないと直感で思える

ことだ。しかし、Πはいまだもって

その解は出ていない。コンピュータ

で計算して数十万ケタ、いや数億ケタ

まで出ているのだろう。

現実の円を見てくれ。完結している。

ひとつくらいきっちりとした数字が

出てもおかしくない。が、でないの

だ。つまり、例えば5㎝の紐を切っ

て、それを円にした場合、円周は5㎝

になるのに、今度は直線である直径

が決まらない。円周が決まった場合

はΠから直径も導き出されるが、なに

しろΠは数字が終わらない。

直径=円周の長さ/Π、であるから

明らかである。直径がスッキリした

数字で出て来るには円周の長さも

パイと同じに天文学的数字になら

なければならない。直径という直

線も円周という曲線もどうもどち

らも決まらないようだ。

見れば現実は一目瞭然ではないか。   

直線はスッキリ切れている。そこに

数字が何億も並ぶような仕掛けは

ない。

こういう時はシャーロック・ホームズ

が言ったように「私の方法は、不可能

なものをすべて消去すれば、あとに

残ったものがいかに不合理に見えても、

それ以外に真実はないという推定から

出発するんです」とあるように、

数式が目の前の現実を導けない以上、

現実が正しい以上、数式の仮説、この

場合は導き出す円周率、または直径の

数字だが、が間違えているということ

になる。「いかに不合理に見えても」、

だ。

それはそうなのだ。約、同じ大きさ

のリンゴが3個、ミカンが1個あった

とする。親が二人の兄弟に分け与え

る時に、兄にはリンゴ2個を弟には

リンゴ1個とミカン1個を渡したら、

これで2個ずつよ、平等だから喧嘩

しないでね、と。

こういう時に算数は便利なもので、

役に立つ。が、現実には2個ずつでも

同じ果実ではないから、厳密には平等

ではない。2個ずつというのは便宜的

なことであり、同じ2個というのは数

の量が同じであって、現実の味はリンゴ

とミカンでは大分異なってしまう。

つまり、数字は現実を概念化する

道具に過ぎず、「現実を写し出すもの

ではない」から、現実から真実を照ら

し出すことができないもの。

だから、Πの計算など10億分の1ぐら

いの小数点以下、9ケタくらいでとどめ

て十分なのだ。それ以上は現実に存在

していないもの、だから。

それは大所から見れば、こうも言える、

数字や数学では現実を描けない、と。

それは数字の世界の概念化された、

地図とか模型とか見取りという仮説

であって、現実を数字の一方向から

だけで切り取ったもの、それは皮肉に

言えば仮想であり、偏った偶像である

ものなのだ。

科学者は宇宙を見て、それを科学とい

う数字で切り取った絵を描くが、それ

は現実の宇宙ではないということ。

生活も同じだ。時間はそういう想定を

利用して、機械で僕らは同時刻を想像

する。そうして時刻表にして社会生活

のあらゆるインフラに役立てている。

しかし、時間は自分(時間の存在)を

同定できない。

朝も夜も日の出も日の入りも、同時刻

になるのはその地域では、年が変わら

なければならない。毎日違うように

計算されているが、僕らには朝は朝で、

夜は夜だ。おまけに日の出の位置も

夕陽の位置も同じように毎日ズレて

変わる。それは地球の自転と公転の

速度に関わっている。


僕らは年末の23時59分59秒から

元旦の0時00分00秒までになにか

生活が変わってしまうことは、まず

ない。

世界時間は「1秒はセシウム133原子

の基底状態の二つの超微細構造準位

の遷移に対応する放射の周期の91億

9263万1770倍の継続時間」と

1967年に定義されている。振動数

(周期数)で数えているので、その

粒子が交替すると、微細に変わって

しまうのだが、それをなにかで同定

して、正しいかという測定ができ

ない。精々、同じ別の粒子の振動

と比較するくらいか。そして、

それも厳密には同定した、とは言え

ない。

僕らはそういう時間とともに、実際

は時計とともに生活しているので

あって、時間を確定したりできない

し、見たり聞いたりはもちろんでき

ない。

ところが、そこに数字の、数字だけ

の正確さは含まれるから、僕らは

正確にして精確なものがあるという

錯覚に陥る。

僕は現実を半世紀は観察したつもり

だが、そんな充てになるものはなか

った。あるのはその時その場で役に

立つ、ある側面でしか現実を捉え

得ないという計算や指標や空想に

類する学だけであって、そういう

ものから現実に何かが生みだされる

には現実の矛盾や問題を長い時間

をかけて数々を解決しなければ

ならなかった。その後でやっと

実用化されるという結果が得ら

れた。

科学の法則は長いスパン(期間)

で保つものがあり、比較的長生き

だった。万有引力の法則も100年

は持ったのだろうか。

万有引力も仮説であるのは論を

待たない。重力が引き合うのでは

なく、互いに近づく運動の様相に

見えなくもなく、それはまだ不十分

な論だが、存在しているらしい。


問題は僕らだ。そういう数字も、

数学も、時間も、哲学も、科学も、

それらを利用して生活する長い時が

あったので、その概念が宗教のよう

に心に染み渡っていないだろうか。

朝に、夕に、お祈りする、教会に

行く、お祈りする、ノートに毎日

計算する、時計を毎日眺める、その

間に僕らの心はなにを取り込んで

いるのだろうか。どこかで衣服を

洗濯するように、心についた錯覚

や誤解を洗い流すことをしてきた

だろうか。

それが何を意味するのかを、誰が

見るのだろうか、聴くのだろうか、

肌に感じるのだろうか。

見るとは何か。眼球で見える部分は

限られている。ではなぜ眼球の開放部

360度の視界があると僕らは思い込ん

でいるのだろうか。

耳は、匂いは、骨は、皮膚は、そこに

も僕らの考える要素の一部が脳に指令

を送っているのを知っているだろうか。

知らずともかまわない、問題はそれが

重要視されないことだ。

全米トップ10の大学が2千数百年もの

古代のプラトンの「国家」を必読書

第1位に選ぶくらいに、人類は社会で

の評価(国のあり方、理想、正義)

ばかりに感心が行き、自然と心身の

生活にはなんも進歩することはないん

だな、となぜ誰も思わないのか。

その方が僕には不思議なのだが、・・

・・。




とまあ、これはそれほど画期的でも

ないし、世界の傾向の大雑把な面を

泡立ててみただけなのだが。国家的な

国際社会の文明や文化と同じくらいに

広いし深いかもしれないが、そこに

取りこぼされた世界も必要だと思われ

ることが現在では徹底して足りない。

心を心理学でと言うが、心理学は精神

分析をする方法を言う。精神はなるほど

心の一部だが、分析するは、また哲学

する、科学するというのと同じことで、

脳の解析で心がわかるというのと同じ

間違いを犯している。が、それさえ

疑われていない。

また善と悪という概念の仕組みが解か

れなければ、その精神にかかる自己

崩壊の危険因子は生みだされ続けて

甚大になるし、一人の犠牲で100人

が助かるなら、その犠牲はやむを

得ない、という単純な計算思考を

する愚かさから逃れ得ないと思わ

れる。それは事実の根幹を理解しな

いことから始まる。



::メモ

なんか、堅く終わる。言い足りない

のは、理性の発生は知性単独による

ものではないこと、その生成は人生

経験が必要とされること。その働き

が適時に適応して働いたことを称し

て、知恵という。(内容は今は省略)

:忘れないうちに:


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認識と考え方の差異を測る [危険]

これは何か?と思った。

鬼ゆず1.jpg

うちの友達からのもらい物らしい。

調理がむずくて食べづらいので、

くれたのだろう。  が、  

これを見て、初めてだと思った。こんな

柑橘類は見たことがない、と。

聞くと、鬼ゆずだそうだ。そうか、

ゆずか。鬼より、岩のごつごつさだな、

と思ったが、名づけはいい加減なこと

が多い。

そう思って、2,3日で、陸橋を渡って

からなので、家から5分も歩いたいつも

の道でその裏道を通った時に、この

鬼ゆずが木になっているのを見た。

2,3個か、青い。下に1ッ個落ちて

いて、それがやや黄色くなっていた。

こんな近くに鬼ゆずがあった。なにか

拍子抜けした感じだった。ゆずの木は

最近植えたものではないだろうから、

この季節は20回も迎えたのだが、一度

も気づかなかった。

いざ鬼ゆずがもたらされてから、発見

するのは発見の歴史に似て、面白いが

注意力不足もある気がして、面白く

ない。

中性子だったか、ノーベル賞の湯川

博士が予言した粒子だが、実験では

長く発見されなかった。ところが、

どこの国の誰かが発見した、途端に

実験していた各国のラボで次々に

発見されたという経緯がある。

それまでいくら実験をくり返しても

発見されなかったのに、一つの発見

を機にして、どこでも発見されると

いうのは意外に多く聞かれる現象だ。

つまり、あるとわかった途端に、

僕らの脳はあると確信する、そして、

確信しながら実験すると、それを

発見するという経緯は、僕には

創造の一部が含まれている気がして

いる。微細な粒子であるから、人間

には創造できてもおかしくはない。

ま、そう言っても妄想だと科学では

一蹴されるだろうが。

僕は自分の現場への認識の不確かさ

を随分注意しているつもりだが、

それでも油断がある。それは年齢に

関係なくある。

起こったことは取り返しがつかない

から、そこを反省して、次回からは

気をつける、ということしかできな

い場合が多い。

油断は気のゆるみから起こるだろう。

それが気がつかないという反省で

あるのは僕の場合は二つある。

ひとつは風呂上りである。体が

温まって筋肉がゆるんでいて、咄嗟

の反応に遅れる場合。次は同じく

薬の作用で筋肉が緩んでいる状態で

ある。これは市販の風邪薬に眠く

なる成分と言っているが、微量に

麻薬成分が入っている。体を休め

て早めに回復するようにその成分

が気分をリラックスさせるので

ある。それで車の運転は控えるよ

うにとの注意書きがあったように

思う。

しかし、その二つを重ねて運転した。

夕方暗くだったので、ヘッドライト

で相手の車の通行を判断する。狭い

道である。ミラーは判断がゆるいと

危険だ。

夕方は抜け道でも混雑するので、

素早く車の切れ目に入ろうとする。

車の切れ目がミラーに映るライト

で見えた気がしたので、入ろうと

したら白いバンが目の前に!すわ、

衝突かと思ったが、ブレーキが

間に合った。しかも、すぐ後に

見えなかったバイクまで通り

過ぎた。久しぶりの危険運転だっ

た。風呂上りと風邪薬を事前に

注意喚起に配慮していなかった。

なかば酩酊に近い状態で運転して

いたのがわからなかった。

まったく、危なかった。

しかし、近頃の高齢者の認知症

じみた運転ではなさそうだ。

咄嗟のブレーキが間に合っている。

バイクもそれほど迂回して通り

過ぎたのでなく、まっすぐ走った。

これについて、初めはとうとう

自分にも高齢者危険運転徴候が

来たか、と考えたが、走りながら

落ち着いて反省してみれば、そう

ではないことがわかる。

ただ、風呂上りは気をつけること

だ。温泉入ったら、運転はしない

ことだ。笑、なんのこっちゃ。

簡単に世の風潮を自分に当て嵌め

ないのも反省のうちだった。

高齢者は炬燵消したか、ストーブ

消したか、暖房消したか、どこそこ

の照明(電気)消したか、と注意

事項が多すぎて、結局忘れてしまう

のだ。なるべくタイマーの利用や

自然に注意が行くようにメモとか

工夫をするようになった。

2、3年前から始まっているが、これ

が誰しもが通る道なのだ。

今回はブレーキとアクセルを踏み

間違えるような症状はこれまで

通り見られなかったので、まだ

大丈夫だが、これからそう長くは

運転しないだろう。そう予備的に

思っておくのが自分への危機意識

には適切だろう、と思った。




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漱石から悲しみの先へ [悲しみ]

高校生の時に僕は遅刻の常習犯

だった。回数を重ねた遅刻者は

週末か翌週明けかに、掲示板に

名前が載る。僕は大体筆頭に

挙がっていたと思う。

校門で生活委員が当番で待ち

構えているのだが、よく元気に

挨拶したと思う。

その僕が生活委員の長である、

生活委員長だった。言い訳だが、

都立の受験校だったので、ほぼ

毎日英語の授業がある。その予習

で寝る時間が削られて、寝坊する

のが日課だった。その日々で得た

ものは遅刻常習の勲章(そんな

ものはないが)と、英語の辞書を

速く引けることだったように思う。

乗っている時は、最初に開いた

ページにズバリその検索したい

単語が載っていることもしばしば

あった。自分でも不思議だった

から、伊達(だて)ではない。


何の脈絡もなく、漱石に移る。

芥川龍之介が漱石の晩年に弟子入り

したが、その翌年には漱石は逝去

している。ほぼ1年だった。

芥川は漱石をその言葉に影響力が

あり、なんでも漱石の言ったこと

なら信じてしまいそうだと磁力の

ようなものがあり危険だと菊池寛

へ手紙を書いている。

芥川の神経鋭い感受性が感じられ

てブログに書いたことがあるが、

あとで気になったのは、そう感じ

たのは芥川ひとりだけだったのだ

ろうか、という疑問だった。

それでそのまま忘れていたのだが、

「漱石追想」という漱石が亡くなっ

た当時の周囲の人たちの漱石感想が

寄せられた文庫本を図書館で見かけ

る機会があって、そこにやはり芥川

だけではない漱石の内面に触れた

ような文が載っていて面白いので

手に入れた。

岩波文庫なので表紙に一部が書かれ

ている。

::「先生は相手の心の純不純を

かなり鋭く直覚する。そうして相手

の心を細かく隅々に亘って感得する」

(和辻哲郎):といった具合で、

これはと期待させ、またその通りで

あった。   (つづく筈)

・・・・・・・・・・・・・・・・

涙が 降って来た

青春の 雨 というやつ 

湿っぽさを 聴きたいのに 

なぜか 心は 爽やかな 

歌声を 求めて 

 窓の下には 神田川 (神田川)

 17本目 からは ・・(22才の別れ)

 ・・・・・・・・

 日々を 慰安が 吹き荒れて 

 帰ってゆける 場所が ない

 日々を 慰安が 吹き荒れて

 死んでしまうに 早すぎる 

      (祭りのあと) 

 もう 恨むまい 

 今宵の酒に 酔いしれて 


そして、涙は乾きやすくなった。

けれども、この繰り返しの時代は

終わっている。今のこれは長い

期間を超えての揺り返しなのだ。

それでも思い出は思い出だ。

あの頃はくり返せない過去に、

涙したが、過去も未来も今は

バッグひとつに収まっている。

考え過ぎるな、と言われた。

誰に? と山びこのように返っ

て来る声もあるが、誰の声で

もない。たぶん、自分のでも

なく、脳に溜められた情報が

当たり前に反射しているだけ。

それを気にしなくてもいいと

知るまでに何十年をかけたのか。

無駄を知るのに僕らは何十年も

無駄をする。

考え過ぎるな、自分の考えは

ほんとうにいい加減な情報から

できている。お仕着せの学校

教育は基礎から積み上げる画一

な方法を選択した狭いやり方で

できている。その時必要なこと

はそれが必要になった時でも

間に合うし、その方が集中でき

ていいというものが、数多く

あるのは事実だ。教育制度は

社会生活に必ず必要なもの

だから、それは必要だが、それ

はそのためにしか役立たない。

僕らが生きるための羅針盤という

案内役は他のものから教わるこ

とができない。

自分に尋ねるのは深い質問でなく

ていい。それが好きな人は考える

人だろう。

例えば、人の心の中心になるパターン

(1~3)はいくつかある。実際はここ

から枝分かれして無限に枝葉が伸びる

から、運命が分散する。ここで書くの

は新幹線が東京を出たら、到着は福岡

だというくらいの精度でしかない。

:: 考える人(1)は突き詰めること

であるレベルで煮詰まり、そこで初め

て限界を超えるということを知ること

ができる。

気持ちで生きる人(2)は本を情報の

ために読まない、小説を読むくら

い。相手との距離を取るのにうまい

外交や社交で生きる人もいれば、

人の世話に人生を見出す人も多い。

行動する人(3)はきっかけが必要かも

しれない。始めからかたくなな処

があり、臆病でもある人は、人と

の出会いによって限界が切り開かれ、

心を開き、行動に移る。もう限界

はなく、生きることは行動してチャ

レンジすることに代わる。::


それぞれの人の個性は基礎が大事

だとか(一部は正しい)の教育や

家庭に押さえられたり、そのため

に自分で自分を抑圧したりしてしま

うが、自分のタイプを知るには

それぞれだが、やはり漫然と一人

で考えていないで、人の輪を目指す

か、新しい地平に向かって行動する

かして、自分を自分で確認する必要

がある。

そこで感じたことを整理したり、

納得したりするのに、その後で

考えることが必要になる。


自分を解放しよう。

そのためにはやりたいことを準備

して、ともかくやってみる。何度

でも最初は挑戦する必要がある。

出来ないと思っていても、試した

事がないのならば、試してみる

必要がある。

この世の事実はみかけはしっかり

しているが、失敗の積み重ねで

できている。その結果がルールや

常識に置き換えられてはいるが、

本来そんなものはない。

僕はそれを知るためだけに40年

以上も思考のジグザグ道を歩か

ねばならなかった。

小鳥が鳴いている。そのためには

さまざまな自然条件がそこにある

ということで、それがどれほど

広範で複雑な要因が絡み合って

いるか、というそれが大事なこと

で、それは社会に護られていては

わからないことが、今は多過ぎる。

それがわからなくなってきた時代

に僕らはいるようだ。

この世に生きるのは、苦しみであり、

悲しみであるというのは紛れもなく

事実だ。それを逃れることはでき

ない。生きるというのはそれでも

生きようとすることだ。

道はジグザグになってまっすぐで

はないのが、おかしいことではなく、

誰でもの道だ。

悲しみはある。それを土台にして

長い間、人々は愛を育てた。だから、

後輩の僕らは愛に迷う。まず悲しみ

があって、あるからこそ愛が生ま

れた。逆ではない。

僕が出会った亡き人々からの愛は

そういうものだった。それはだから

死の世界で愛に触れている。死の

世界は僕らが考えるあの世ではない。

それはそういうようには存在してい

ない。

むしろ、死のゾーンという壁が愛を

囲って守っているのかもしれない。

だから、死に損なった人は、無意識

にそこに触れて愛を伝えられる。

自分の個性をゆがめた形でしか知ら

ず、それを信じて生きようとして

うまくいかない人は大勢いるだろう。

愛を自分の欲求への方向で求めても

それは愛を悠久の彼方に追いやる

ことになる。

「死を突破する」という言葉がまっ

たく役に立たないということは知っ

ている。

しかし、その役立たずの言葉で伝える

のがやはり、愛にタッチすることで、

知りたくない自分を知る必要も、

恐らく愛から来ている。自分は嫌な

奴だと知るのは自分を知る第一歩なの

だ。それを認める処から始めないと、

なにも始まらない。


僕は空想家になろうとしている。

物事はわかりやすくない。複雑だか

らではない。高いIQ が必要だから

ではない。現代は頭の良さという

ものを知能に限定しているし、そう

いう傾向を教育に組み込んでいる。

空想家とは、鳥のことだ。

野鳥のエサ小屋とエサを注文した。

朝にスズメや他の小鳥の声を聴いて

彼らの習性なんかを知りたいと願う。

なぜかわからないが、小鳥は警戒心

が強いのだろう、僕に声をかけたり、

直接軽いアタックをして、挨拶した

のは大型のアオサギとかトンビで

あとは頭のいいカラスたちだった。

僕が仲間ではないにしても、彼ら

は僕に共通の意識を持っていた。

だから、挨拶して通じると思った

のだろう。

僕は今まで無視してきた。わから

ないのだから、相手になっても無駄

だろうと思った。それが鳥の渡りの

番組を観て、なにかが動いたようだ。

小鳥の声を聴きたくなった。

観察するのは知的行為だ。そこには

僕らの正規の感覚から漏れてしまう

道理や論理が働いている。筋道だけ

が見える。動物行動学を学ではなく、

動物の生態生活として生みだしたの

はコンラート・ローレンツだ。彼は

鳥や犬猫、家畜たちと生活を共有

していた。コクマルガラスに帽子を

取られ、ヒナと一緒に池を泳いで

その生活の中で様々な発見をしたが、

観察はそれらの行動のあとで気づく

形で現れた。見つけようとして見て

いたのではない。

僕らの生きる大事なヒントはやはり、

生活の只中にある。多すぎる知識に

囚われると、僕らは自分を盲目に

してゆく。

考える人(1)は休む暇はない。

考えに考え、頭から煙が出るまで

考える。そこでやっとどこまで

考えるのが思考の限界かわかる。

そうして進むと、考えないこと

もしなければ、ただ無観察に見つ

めないと、ということがわかる。

行動する人(3)は臆病の殻が破れ

たら、世界を広げることだ。自分

で試して知識では歪んで誤解され

た内容を実際に体験してそれを

修正することができる。発見は多い。

教育で教わった「分野」というもの

は実際は存在しないことを知るはず

だ。なにをすれば、どうすればと

いう疑問は楽しくなるだろう。

人の気持ちに寄り添いたい人(2)

は、これまで通りに生きるだろう。

人の参加する輪の中で、和の実行の

難しさを感じるだろう。あなたは

愛に一番近いだろう。考えが感情

に左右されやすいので、そういう

嫌いなものをむやみに拒否しないで、

参考にしてアドバイスを大事にし

た方がいい。人のそれぞれの事情

はただ気持ちだけによるものでは

ないからだ。あなたが人をまとめ

られれば、一番リーダーに向いて

いるはずだ。平凡でもそのほうが

いいのだ。(これもつづく筈)


それぞれの人が思うさまは、山の

大きな岩から清水が沁みだして

流れるように、さまざまな通り道

をつくり、別れて流れゆく。

それを観る思いで、今はこれ以上

書かないでもいいみたいだ。


悲しみはやさしく思いやりを育て

苦しみは甘い実を内に含んで

やがて幸せを呼ぶ、というそう

いうひとつの人生もあるのだ。

ジョン・レノンのイマジンの

ように正しいことを謳っても、

わかりやすいことはなにかが、

大事な過程が省略されている。

音楽だから気分の高揚にはそれ

でいいのだろうが、歌詞をその

まま信じるのはあまりに不用意

だ。どうしてそれがどう正しい

のか、それぞれ自分で探し出さ

なくては、言葉だけに終わる。

それはそれを悪用·誤用する者が

いるということだ。

社会から教わるのではなく、ある

一定の段階からは社会のいい加減さ

が成立する必然、それを支える僕ら

人間のいい加減にならざるを得ない

必然を知る必要がある。

・・ と、また書いてしまった。


::ここらで::::


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形而上の森を見て気づくこと [形而上]

形而上、である。それが形のないこと

の謂というならば、どうして無形而上

にならなかったのか、漢字の訳に苦しむ。

が、苦しんではいない。軽く疑問に

感じる程度で、だからどうってこと

はないのだ。

形をもってそれより上なるものを

形而上と言ったそうで、それは道(剣道

や茶道など)や時間のように形のない

ものを言った。形而下というと形に

触れて目に見えるもの、物質でできた

ものを言って、器などのことだ。

この上なるもの、下なるものの決め方

がくせ者だと思う。これは天地人の

ことで真ん中の人から上を天、下を

地といった比喩と同じで、空に絵を

描く思想とか、土をこねて作る器と

いう比較だろう。

しかし、形而上学には少しの勘違い

があり、それはアリストテレスの

「メタ・フィジクス(自然について)」

を井上哲次郎が明治に訳すときに、

これは形而上の語を使うのがよかろう、

と使って形而上学が誕生した。

中国では同じころ、玄復という思想家

がそれを玄学と訳して流通し始めてい

たが、日本から「形而上学」が入ると、

歴史は皮肉で中国でも「形而上学」が

主流になってしまった。

(日本があまりに西洋の語を訳す漢字

を作ったので、今の中国の漢字は60%?

くらいも日本の漢字を使っていると

言われる。日本は中国文化の真似とか、

言われる筋合いではない)

かくして、形のない学問は思考とは

一般には反対の確固たる形から定義

されたので、意味がわかりにくい

名前になってしまった。

井上という哲学者は、失礼ながら

二流だったのだろう。形無しを

形而上と言うのは理解しづらいと

は考え得なかったのだから。



と、どうでもいいことを書きながら、

ここまで来たらしいが、もう夜の

更なる時間でありながら、起床から

は6時間しか経っていないので、今

いち頭が回っていない。

「どうする家康」を観てからは、

他のドラマでもどする、とTV画面

を観ながら解説する癖(半ば独り言)

がついてしまった。

どうする?これから、である。布団

の上時間が長いという寝過ぎなので、

14時間か?眠気が強い。


形而上で思いつくのは、思想や哲学の

観念・概念論のことである。現代の

欧州の哲学者でこれだと記憶していた

本が異なっていて、それが載っていな

かった。「箸について」書いたもの

だったが、箸の機能論で、哲学的な

理論的表現になるものだった。それは

なるほどこういう言語空間も作れる

のだな、という巧みさが見受けられ

たが、不足の違和感を感じる。

それは機能だけで、歴史がすっぽり

抜け落ちていることだった。箸が

どうして日本で定着したのか、それ

は東南アジアでも中国でもいいの

だが、書かれていないのだ。ちょう

ど頭脳の解説を聴きながら、頭蓋骨

の話だけなので骨よりも中身の脳の

作用のほうが重要ではないか、と

読み手に感じさせてしまう点だ。

観念論はその欠点がそこにあるのは

言われ続けているが、理解が十分

とは言えないのが、僕らはそういう

思考や思想を読んでも、それを

自分なりの、しかも観念論の陥り

がちな大雑把にして大風呂敷の概念

でそれを包もうとするからだ。

その思想が書かれるための数段階の

理論的な世界観をまるで、それが

平原にだだっ広くあるように、平坦

な観念にして語ってしまう。

もともとのその思考本がある範囲に

ついてのことが書かれているだけな

のに、それを自分の実存とか理とか、

世界にして語ってしまう。それでも

まともな青年はそれが誤っている

こともある、と知の恥じらいを込め

て述べているので、まだしも健全で

ある。これが堂々と、絶対な感覚で

語られたら(衒-テラ-い、という)、

誰も見向きもしないだろう。

例えば、頭蓋骨を語って脳を語らな

ければ、肉体を語るのに内臓や筋肉

その血流組織などを語らず、骨格

ばかりを語るのは、概念論で人間

を語ろうとするようなことに陥る

だろう。

お互いへの理解が滞れば、誤解し

たまま事態は進まず、動かない。

しびれを切らして、喧嘩になった

りは、なるほど時々見かける光景

だろう。

大勢が関わる案件で起きた事件を

解決しようとして、こういう条件

なら相手も納得するだろう、かも

しれないという策を提案しても、

それが良好な提案であるとないとに

関わらず、事態は別な方向に進んで

しまう場合が多い。それが相手への

理解不足からの無駄な提案案件作り

になっている。

いい商品だから売れる。これはない。

いい本だから買ってくれる。それ

もない。いい提案だから契約・納得

してくれる。これもない。それは

確実ではないのだ。商売でもこれは

売れると決まった商品はない。まず、

売ってから、商品を作る。であれば、

確実に儲けることができる。

それができるのは初めから、それを

予約してしまうほどに消費者のニーズ

が取れていることだ。それがすなわち、

初めから相手の意図がわかることだ。

日本の外務省の外務次官がアジアの

債務国のデフォルト(不履行)への

提案を巡って、日本が草案を練ったが、

一番の債権国は中国だったので、中国

におもねる形での納得できる金利を

載せて提案したが、すぐに中国と

債務国が独自に二国間で取り決めを

交わしてしまい、他の債権国は取り

残されてしまった。半年もかけた

提案を煉った期間は子供だましの

ように無駄になってしまった。

中国にパイプのない日本が情けない。


頭のいい官僚の欠点は、こういう処に

現れる。役所仕事では国際交流は

開けない。骨ばかり集めても、債務

国も一番の債権国も観点は違う処に

あったのだ。問題は全体を納得させ

るように動くのではなく、中国に

直接アタックして何を考えているの

か、そこから始めるべきだった。

そういうガッツのある、・・・いや

やめておこう、古い体質だと思われ

そうだ。

木を見て森を見ないのもダメだが、

森(全体)を見て、なにがポイント

かを見れないのも、同じように役に

立たない。



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国の事情2 生きる事情 [事情]

どうも引きこもりの症状が

出始めているのではないかと

観察している。気分ではなく、

考えが悲観的で自分への

被害者意識が首をもたげている。

いつだったろう、引きこもりを

したことはないが、自分は何が

したいのか仕事をしないで8ヵ月

家に籠って追及したことがある。

それは体も心も休息が必要だった

と、今は理解できるが、当時は

ただ自分の将来を考えようとした

つもりだった。

ブリュゲール2.jpg

ブリューゲル:農民の婚宴

最後には被害妄想が出て、家族が

暗に裏で自分を非難しているの

ではないかという被害妄想が

出て、その危険から仕事を再開

したが、正常な神経に復帰する

のは大変で3か月かかったと記憶

する。(だが、その後の負の運命

(気)を背負わされていたので、

それを清算するのに生活は4重苦

になり、終わって解放されるまで

5年もかかってしまった。これも

どこかで書いた)

なので、僕はウツ症状も引きこも

りも、被害妄想も全部表層体験済み

なので、病気になることはなかった

が、その酷い心理状態は理解できる。

今は生活は分断されている。

起きているのは、午後から夕方と

深夜で、寝るのは午後10時ころから

2,3時間と夜明け近くから午後まで

と、24時間で2回寝て、2回起きて

という不健康に思える生活なのだが、

コロナ下での似たような日々だった。

寝なくても必要な時の寸前に寝て

しまうだろうし、いつ寝てもいいの

だと思っているから、あまりストレス

は感じていない。

しかし、5年ともなると、以前のよう

に海外へ出たくなる。隠れストレスは

溜まっているようだ。海外が無理なら、

春になったらキャンプでもすればいい。

その点を中心にしてこれからの生活の

プランを朧気に計画するのはた易い

だろう。

考えるとつまらないが、実際に出かけ

てみれば新鮮さを覚え思い出すものだ。

手に触れる自然と生活がそこにある。

その時は生き返る気がするだろう。

実際、人はそうして生き返るのだ。


毎日が一本調子で同じくり返しに

思え、退屈な感じがするのはその

前哨戦だ。それが煮詰まり始める

と鬱が現れ、危険な兆候が出始め

る。そこまで行くと遅いのだが、

回復にも時間がかかり過ぎるから。

でも、仕事のルーティンをしてい

るうちに、気の運命期間も過ぎて、

必ず解放が訪れる。

僕には特別な動機を払拭するため

に5年もかかった。

こんなことはつまらないことで、

今までは避けて書かなかったが、

今はきれいな水を求めていない

所為か、多少泥が入っても飲ん

でしまうように、書いてしまっ

ている。無自覚ではない。

荘子が?老子か?出世するより

も泥の中で遊んでいたほうが

いいと言って、実際山の中に

隠棲したような気分だ。

自分が崩れ、壊れるほどに

開放した気分とでも言うのか、

定年後の楽しみだろう。

何が楽しいかって、なにもする

ことがなくて、それでも退屈して

もいい、という開き直った気分

なのか、それでいいという。

簡単に何かこれ、をしなくては

ならないことが何もない。それを

通常に考えたら、ふつう憂鬱に

なるはずだ。それがならないのだ。

ただ意欲だけはあり、それを発動

すると考えるのは楽しい。実際に

は何もしなくてもいいと考えている。

いや、考えではなく、気持ちでい

るという、生活のやさしさと呼んで

もいいものだ。

そういうやさしい生活をしていると

考え方も変わる。昨日も、交通事情

を信号待ちをしながら、考えてみた。

交通事故は随分減ったのだが、それ

でも30万件以上が発生している。

ただ死亡者数は昔の3万人からは

かなり減っていて、令和3年で

2600人程度。5年連続減少らしい。

安全運転というのは運転の上手・

下手ではない。30年も連続で無事故

の運転手は決して自分の運転が上手

だと思わない人だそうだ。なので、

駐車からバックする時も、子供が

いないか(見えないから)わざわざ

降りて、後ろを確認するという。

スーパーなどの駐車場ではかなり

有効だろう。

問題は焦らない意識だ。譲ることを

損したとか、信号待ちを嫌がって

赤になるのがわかっても、交差点に

侵入してしまうなど、待てばいい

というのが安全運転なのだが、それ

が意識の基本だとは教わらない。

ただ交通ルールを覚えさせるだけ

で理解したとする、感覚の改革だ。

3万人の死亡者数が2600人に減少

したのだから、やればできるのだ。

そこからいじめが毎年増え続けて

いる現象は実際に教育委員会や

日教組などがその気がないことを

示している。それにはその元凶

があるのだ。ここまで世の中が

汚くなってしまったのにも、それ

が蓋をされたままでいるのも、

最近パワハラの事態が暴かれて

いるのはいい傾向だと思う。

そして肝心なのは、わかったふり

という忖度をするのではなく、

わかるまで追及することが大事

でそれまでは保留なのだ。置い

ておくだけで何もしなくていい

わけではない。

例えば、日本人にとってもまだ

難しいのは、性の解放というよう

なことで、それが進んでいるのは

ヨーロッパだろう。なにしろ、

地上波のTVで全裸の放送が許可

されている。向こうで暮らした

経験があるなら知っているだろう。

ところが、アメリカでは自由の国

の割にはそこまで行かず、特別な

チャンネルで許可されていても

さすがに地上波では抵抗がある

という。

ヨーロッパで著名なヌーディスト

ビーチは20以上に上るし、半数

以上は地中海側にある。全部で

どれくらいあるかというと、1000

以上ある。(1000!)場所も広い

ビーチだけではなく、崖や岩場の

狭い場所もあり、パラソルが並んだ

にぎやかな処もあれば、閑散とした

自然を満喫できる処もあり、いろい

ろだ。全裸が義務のビーチもあれば、

全裸でも構わない服装自由のビーチ

もある。挑発行為などを禁止する

様々なルールもある。

ビーチでは自由になれるという主張

があるが、なにかを脱ぎ捨てたとい

う解放感があるだろうし、それが

開放感であり、自由を感じさせるの

だろう。

ドイツ人は裸になるのが好きだと

いう噂もあるが、夫婦や恋人、

親しい友人などという関係では

セックスは娯楽の一部だという

軽い感覚もありそうだ。

それで元イタリア大統領の故ベル

ルスコーニが自宅で全裸パーティ

をしても在任中でもまったく問題

にされなかったわけだ。ただ未成年

の少女が招待されたということで

問題になった。日本では大臣が愛人

が発覚しても辞任に追い込まれる

から道徳水準の違いから意識の差

が浮き彫りになる。

どう考えるべきか、僕はもう決まっ

ているが、これは各人が考える問題

でもあるだろう。

安全運転は自分は下手だと思っている

運転手がしているように、政治も

運転が上手だと思い込んでいる人を

トップにしてはいけないのだろう。

例外なく、強い人間がトップになる

と間違いなく部下は大変な目に合わ

される。それは国民ということに

置き換えられる。

習近平が毛沢東を尊敬していると

公言し、数年前に中国の地図を

アジア全土に広げることを宣言した

演説はまだ記憶に新しい。

毛沢東は政策を誤って、文化大革命

で紅衛兵による大量の殺戮で2000

万人民を死なせたことで有名な人物

ではないか。

頭がいいとされる人物ほどトップに

なった時に自我膨張の運命に見舞わ

れる。

例外がないということがわからない。

誰しも自分は大丈夫だと思う。

それは覚せい剤を数度打っても自分

は中毒にならないと思うのと同じ

で、あり得ないことなのだ。その

怖さを知らない。

僕は精神力が半端なく強いので

ある時期まで自分はどんな状況でも

自殺しない人間だと思い込んでいた。

だが、大鬱になって、その淵まで

行ってそれはただの思い込みだと

悟らされた。

僕に残っていたのは、自分が自殺

したがっているとその光景を見る

だけでそこに影響を及ぼせない

眼だけだった。力を振り絞って

というその力もなかったが、

少しずつ体を曲げるような感じで

だんだんその淵から離れて行った。

それができたのは、19歳の例の

無の体験だったと思っている。

それは自殺以上の深刻な虚しさ

を抱えていたから。肉体が死ぬ

くらいでは何にもならない、と

心にもどこにも(死んでも)

逃げ場がないということがわかっ

た。

そういう人間はいくらでもいる。

そういう人間にとって生きる

というのは奇跡に近い。実感

でわかる。それは左腕を事故で

なくして、五体満足のしあわせ

を実感(現実的な想像)できる

というのに似ていて、人にお前

もやれよという気にはなれない。

死を知るというのは、どうも

そういうことらしい。

またここに戻ってきてしまった。


まだ空は暗い。

ここにいると、感じる。

この感じが素晴らしい。

ここに。

これは幻想ではない。

誰が亡くなっても、他の人

たちが生きてゆく。

どんな意識も消えるが、何か

が引き継がれてゆく。

僕はそういう末裔だと、死に

損なって思うようになった。

そういう意味では誰も死なない。

父がいて、母がいて、子がいる。

それは遠い、遠いはるか数千年

という想いに誘われる。

僕たちはいつ人間になったん

だろう。いつ自分のことを自分と

気づいたのだろう。そして、

基本は自分は「自分という姿・

模様を当て嵌め、組み込んで

ゆく枠(額縁)のようなもの」

だと気づいたんだろう。

だから帰国子女はアメリカナイ

ズされて、日本の学校に適応

するのに苦労する。一部アメリ

カ人意識になったのだ。


気づいていない人のほうが多い

のだろう。なかなか意識は

ひっくり返らないから。

「猿の惑星」の著者は人間とは

なにかを訴えたかったらしいが、

その原点が「戦場にかける橋」

なのだろう。AMAZONで古い本

なので3000円するのに驚いたが、

先日の検索で廉価で非常に良いと

いう評価の本が1冊だけ出ていた

ので、早速購入した。

まだDVD「戦場にかける橋」は

借り放しで観ていないから、これ

も観るとしよう。



夜は更けゆく。

君はどこで何をしているか、という

詩を書いていた頃を思い出す。

僕は ここに いる


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犬の事情 国の事情 [犬]

書くべきか、書かざるべきかと

迷うようなことではないのだが、

その理由はまた念押しになっても

なぁ、というためらいなのだが、

どうも自分では同じことばかり

書いているという印象が否めない。

少しでも新しい部分があれば、一歩

前進として書くのだろうけれど、

そんな気もしていないので、ます

ますためらう。

そこにたどり着くか、転換するか

はその場任せにして、まず書いて

みるかと思うが、・・・・・・

暇だ、としか言えない。


シギという渡り鳥がいる。

世界を股にかけて季節で繁殖地・

越冬地などに渡るのだが、それが

想像以上に凄まじい。6000km

に及ぶ飛行をする時もあり、その

時は1週間は飲み食いをしないと

いう。出発前に食いだめをする。

途中で抜けて、補給をする鳥も

いるらしく、群れから遅れてまた

飛び立つ。

方向は星の位置とか(夜)、地球

の磁場とかいろいろ感知すること

ができて、それで迷いはないらしい。

渡りは以前から、いや昔から興味

があって、調べるつもりでどこかに

買った本があるはず。今は図書館

で借りたのがあるが。

猫や犬にもこの遠方へたどり着く

という能力はあるようで、家族の

引っ越しで生き別れになり、後から

自力で100㎞以上離れた遠方に

3週間?くらいかかって、ボロボロ

になってたどり着いた飼い猫の話

は記憶にある。この場合は、人間の

脳波は弱すぎるから、どうして辿り

着けたかは謎である。

そういうことは大昔からあったの

だろう。エジプトには神様に祀ら

れた猫の像まであるから、ただ

倉庫のネズミを退治しただけでは

ないのだろう。

僕はそういうことに自身の共感が

ある。もう半世紀前の話だが、

中学の友達が千葉に引っ越して、

訪ねて行ったのだが、なぜか最寄り

駅に着いたときは日が落ちる頃だっ

た。ゴルフ場の方角だったから、

その方へ歩いたのだが、まったくの

山道になった。帰りに昼間通ったら、

キジやリスが出てきたくらいだ。

そうして、真っ暗な台地に上り着く

と、団地だが、まだ友達の家くらい

しかないというから、灯りですぐに

わかるだろう、という軽い見込み

だった。ところが道路まで着くと、

実際2軒くらいしか灯りがないので、

すぐにその家を探し当てられた。

着いたら、驚かれたが、こっちは

ふつうに来たつもりだったから、

そんなもんか、である。

そして、帰りの山道が地元の人が

近道で歩くような道で、最も近い

道だったのに、驚かされた。

初めての土地でほぼ駅からの道路

を曲がってから一直線に辿り着い

たのだった。まるで渡り鳥の航路

である。それを思い出した。

東京タワーも昇ったことがなく、

総武線と中央線の区別もつかない

東京在住の人間だったが、方向

感覚は抜群によかったらしい。

今でも、高所恐怖ではないのだが、

なにしろ水上(みなかみ)で近年

バンジージャンプをしたぐらいだ

が、東京タワーもスカイツリーも

訪ねたことはない。命の危険は

なく、安全なので、興味がないの

かもしれない。

DOG SENSE 「犬はあなたをこう

見ている」という題の本を買った。

英国でベストセラーになったとか。

2011年当時の動物行動学で犬の

心理を書いたものという。

10頁読んだが、犬の本質は狼だが、

そもそも野生の支配という性質で

はないらしい。なので厳しいしつけ

よりも褒めて慣らすほうが、犬の

健康にはいいという。その誤解が

まだあると、著者は嘆く。

明日空からお札が降ってきたら、犬

を飼ってみようかと思っていたので、

この手の本は資料として手が出る。

犬が人間の表情をするという点も

興味があったから、犬と生活できれ

ば、そこを尋ねてみたい、犬に。

(笑)がつかないのは、まじめな話

だからだ。

動物を飼うと、病気や健康のことで

世話も手間もお金もかかる。犬の

気持ちに沿う場面も必ずあるので、

安易に飼ってはいけないものだ。

犬は見て1.jpg

午前3時に起きたので、もう夜明け

になるが、太陽は見えない。ずい

ぶんと南に寄ったようで、隣家の

壁で見えない季節になったようだ。

カラスがしゃがれた声で鳴きな

がら、2羽飛んでゆく。

空は白くなり、もう低い雲の際

から上がったのだろう。静かだ。

インドでは昼間暑いから半分の

人は影に入る。活動は自然、早朝

に起き、始まる。夕方から再開

する。ともかく、インドの街の

早朝は井戸場だろう、女たちの

けたたましい声で騒々しく明ける。

日本人なら、朝っぱらから罵り

合っていると思うだろうが、

それがいつもの光景なのだ。

東南アジアやインドへ行くと

活気がわかる。以前の日本に

あったものだ。その海外から

帰って来ると、東京駅に着いて

空気が沈滞しているのがわかる。

少子化と老人社会だな、と実感

する。インドは14億人、日本は

その10分の1も居ない。

韓国は日本の人口の2分の1だが、

国土面積は4分の1しかない。

つまり、人口密度は日本の倍。

それで土地が高騰して家を建てる

のは難しい。結婚しても家がない

という若者の住宅事情。給与水準

は現時点で日本を越しているが、

今は日本のほうが並(な)べて

平和かもしれない。




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壊れゆく神楽月(11月の異名) [詩]

あくびがでる。

書く気にならないからだが、書く

気というのは意志のことではない。

書くためには自分の内部に表現が

出ようとするプレスを感じ、それ

を整えるのが肝心だ。その整理・

調整をする気にならないという。

勝手な言い分だが、これを避け

て通ることはできないので、不便

だが、生理的な儀式のようなもの

だから仕方ない。

あくびがでる。

今日は休日でのんびりしたから、

すっかりたるんで怠惰な軽い重さ

が筋肉を満たすのだ。

眼を 覚ませ 

花が 花開くように 

You can 

それは ありがとう 

そんな気分じゃないが 

好意は  もらっておくよ 

最近の バッテリーは 

優秀とかで  長持ちするそうだ 

その代わり  突然、 

バッテリー上がりに 

ひと晩で  次の日には 

電子キーに反応しない 

エンジンも かからない 

そうか こりゃ 上がった 

どのランプも  点かない 

まったくの  スカスカ 

バッテリーチェッカーを 

貸してくれないので  買う 

確かに  何の反応もなく

どのチェックランプも 点かない 

まあ  車検が 1週間後だから 

ここで上がって  よかったのかも 

と  慰めにも ならないが

今日は  休日なので  

忘れた 

必要なことは いいタイミングで

起こる 

そう思っていると 

こういうこともあるわけだ 

けたたましく 警笛を 

鳴らされたのでなく 

街角で バッテリーを 

買う羽目になった だけ 

ハミングをして 

夕陽を 眺めれば 

明日に しようと 思うもの 

よくある 風景 

よくある  出来事 

なにか 秘密がある気が 

したが 

どこかに  置いてきた よう 

君は 覚えているかい 

昨日 どこに 立っていたかを 

精神のコマの上で 

回っていた時 だよ 

ハッピーに ショッピング‐

キャリーを  引いていたかい

SF に巻き込まれて 

未来の風景に 興奮して

いたかい 

そこに自分そっくりの 

体が あるなんて 

誰が  嵌めようとしてるんだか 

ネーブルを  ミキサーしても

1個じゃ  一口分しかない

昨日よりは 酸っぱくないと

誰と 話したんだっけ 

それらが  めくるめく

音楽のように  舞い飛んでゆく 

ソヂュア  ケイシ

ネバネバ チョユクア 

フィル キュア 

エバべバ ネバクッドクドゥ 

ア~ア ハ~ハ 

チョニュルア  ネバクッドゥ 

エムプティ  ブリジア 

ニジューテイク  バリボア

豚小屋を  覗いてゆくかい?

ニジューテイク  ヒヤ 

がっつり  しこ踏んで 

そんなとこに  乗ってないで 

アイヤイヤ って 

二重ステイ  二重スパイ 

二日やって  二日去って 

二重ステイ  二重スカパー

二重ステイ ヒャー

ソビエ セイイェイ 

トでゅあ  二重ステイ 

アイコン 振って 

尻尾 振って 

アイヤイヤ って 

そうらん学府に  参ろうか 

冷静になって 

耳に  鉛筆はさんで 

たこ焼きでも  食ってみる 

のも 

いいよね 

エン ネ~ 

・・・・・・

ブツ ブツ 

・・・・

・・・

ハブドゥ  ラーイ 

君の  踊る姿 

ソヂュア  ケイシ

ネバネバ チョユクア 

フィル キュア 



ブツ ブツ 

・・・・

・・・


グーデン ゴラス 

イネポディ マイ ダーティ 

イカニ マイティ ローズ 

♫ ♫ 



完全  死愛 



猿バラ サラバ サラバ



ビールイャー ビヤカンカ



ボーン ボーン 4時


・・・・・

・・・


ゴーギャン1.jpg

ゴーギャン:自画像

::書き終えて:


死にゆく者の 勤めとか 

生きゆく者の  努めとか 

そんなもの  幻想だが 

なんか 

正夢なのかな という気が 

してきた
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道はない [道]

僕の道はどこにあるのか。

どこにもないからこそ、その問いが

現れるのではないか。

道が見失われることはよくあること

だった。しかし、もうその道はあり

得ないことだったら、大変なこと

ではないか。それは現れるべき道

というものが、もう現れることは

ないのだから。

それはもう道が必要ないのであるか、

道という指標のようなものが僕に

対して死滅してしまったのか。

そうなると、最もふさわしい言葉

である「混迷」とか「混沌」と

いうものではなくなる。

何かに対して混迷したり、まったく

見通せないので、混沌に陥ったと

感じることではないのだ。

では、何か。

生き方が変わってしまったのだ。

右や左を区別したり、危ないことに

注意したり、名前の対象の生物や

昆虫を間違えない、ということは

動物の知性で、人間の知性の使い

方ではない。

この世に対応してそこに自分の

社会的な対応としての方法を模索

することが自分の道を探すこと

だろう。それは自分の天性や癖を

鑑みて、また時代や現在の社会の

潮流に合わせて、または逆らって

道筋が整えられて行くといった

ものだ。

そこに自分の社会的意義という、

社会に生きるまっとうさというか、

正当性でもいいが、その意味・

生き甲斐をまったく放棄したと

したら、こういうことが起きるの

ではないか。

誤解から無知、暴力まであるのが

現代社会でそのどれひとつも衰退

したことはなく、流行のように

毎年姿や形を変えて現れる。

誰も全体を把握しない。それは現

情勢を把握するにしても、現状

分析しかしないからだ。全体では

なく、小地域、小範囲という一部

の現状を捉えるので、それ自体が

環境破壊とか温暖化とか新自由主義

と保守の戦いとか政治や倫理や経済

などの分野に吞み込まれてしまう。

そういう分類が分断として全体から

離れて、一分野に限定した考えに

なってしまうことに気づけてい

ない。

取り組んでいることは善で、その

地域的な一助にはなっているが、

一助というのは一時的な結果に

終わることを示すものだ。

僕らの根本はどこにあるのか、

と発言すると、もうそれが誤解

の元になってしまう。

何か一つのものを見出そうとし

てしまう。なにか一つで大きな

機能を備えて、その考え方でも

示せば根本問題はすべて解決して、

なるほどと人々が納得するような

真理とかは存在しない。

思想や概念はそういう狭い範囲に

閉じ込められた不便な武器なのだ。

それをどんなに新しい解釈で臨んで

もそれは人々に理解しやすいだけで、

実際の解決には至らない。絆や活動

グループがつくられて、皆で揃って

意気揚々で勇ましく、希望があり

そうだが、遡ってみれば過去にも

やったじゃないかという道をまた

歩いているだけだ。

全体に俯瞰して、社会全体にも心域

全体にも、パラレルでシンクロする

自分というものは、人間存在の成り

立ちから言って不可能なことだ。

しかも人間全体では、同じ事件が

起こっても、僕は子供で君は老人か

もしれない。僕はそれがわかるまで

後何年もかかるだろうし、君はもう

関わりになりたくないほど疲れて

しまっているかもしれない。

もうその狭い部分(それぞれの人の

成長や世代という)だけで重要な全体

への統一というものは失われている。

僕らはいつの時代もバラバラだった。



人民を悪い意味で支配するのも泥棒

の一部の理というものがあるようだ。

人は心理的になにかに拠りたい(頼り

たい)避けられない要求を本能的に

抱えているようだからだ。

僕らはこれまでの長い歴史の経過の中

で多くの暴力と不幸と悲惨な運命から

それが不可避であると信じることから

始めてしまっている。(諦め)

ほんとうは今から始めることがそれを

築いていく一本の道なのだが、不用意

にそれを邪魔する既成概念という洗脳

があって、僕らはその重圧に自覚して

も無自覚であっても苦しんでいる。

理解しがたいことは理不尽という

便利な言葉があって、その陰に

僕らの希望が被われてしまうのも

仕方ないことだと自分に思わされて

いる。だから僕らはその理由を知ら

ない。

大抵は、遠い遠い理想を夢見る。

世界平和とかそれは人が愛し合えば

いいのだ、と脳天気なことを考える。

愛を欲求するものの多く、愛を知ら

ない人ばかりの状態で、愛は行いで

伝わるがそれを条文化しようという

ことが、もう愛ではないとさえ知ら

ない。だから、寛容は善が半分ある

ものだが、愛では全然ない、とは

教わらないし、そういう考えに至る

ことで知り得る者も少ない。

そして、深くも広くも言葉に苦しみ、

言葉の広範な理解に至った者でも、

相手の言葉の真意という正しい理解、

それは複雑な感情や考えのかたまり

であるので、それを直覚するに至る

難しさは知らないことが多い。

僕はただ、その困難を知っている

だけましだと思っている。



だとすれば、僕が全体の人々が

全体を決めていくべきだと考える

以上、僕の考えられるような自分

の道が大事であるはずがない。

それはややこしいが、全体でひとつ

の意志にまとめるような全体主義

のことではない。必要な処は地上

や国で法律だって変わるだろう。

そこに人間性の統一があればいい。

問題は人がそれぞれ、それを知の

概念ではなく心の複雑な底の、言葉

(概念)のない実感でそれを理解

することだ。

賢人政治ではない。

才能のある者が独裁すると、必ず

野望が首をもたげる。凡人政治で

もできる体制でいい、そういうコミュ

ニティの在り方を確立させることだ、

と思う。



:::ひとつのきっかけとして:

子供時代がその人の一生を決める

とか言われるが、それだけでは信じ

がたい。もしそうなら、日本の

揺籃期はそれが終わった弥生時代

から現代までよりも4倍くらい長い

時代だった縄文がその揺籃期に

当たるはずだ。

だが、それを学問的に分析して

概念化しても、出来の悪い教科書

に過ぎないだろう。このヒントで

縄文にたどり着ける人が現れると

は、やはり信じがたい。

(ここで思い出した、「道程」だ。

最後にこの詩を載せよう)


<道程  高村光太郎:詩

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた廣大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の氣魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため  >
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へそまがり陶芸 屈人織辺日記 13. [陶芸]

秦野市の陶芸教室に通い始めた

のは、もう1年以上前になります。

ここでは陶芸の基本は何かという

疑問から、釉薬や土、焼成や窯の

ことなどあらゆることを聞いて、

手びねりから始めて、基本中の

基本を教えてもらいました。

僕ほどの質問をする人はいなかった

ようで、先生も本気になって考え

てくれました。ほぼ、知識を僕に

流してくれたのですが、・・。 


電動ろくろを陶芸教室で回しなが

ら、教わりながら、いつもの違和感

がこの半年間でだんだん大きくなっ

てきます。

そのままでは済まない自分の気性

なので、チョコを齧るようにちょ

こちょこ分析をいれることになり

ます。

今晩はそれが見えた気がしました。


その前に気になっていたことを話し

ますと、釉薬を塗って本焼きします

と、器は完成なのですが、出来上が

りは焼成の酸化と還元によって違う

のですが、窯の種類に拠って大きく

色合いなどが異なっていて、特に

自然のいたずらで変わった色合い

や味が出ることがあります。

これを景色と呼んでいることも多い

のですが、先生は陶芸への興味を

持たせる意味合いなのか、どんな

景色が出ても、いい味が出たという

具合に評価します。

これに違和感がありました。汚く

感じるような景色が出ても、感性に

逆らってもいいと言わなければなら

ないのでしょうか。僕にはすべて

がいい景色だとは思えません。

当然ですが、生徒さんの作品をけな

せません。

ただなにを美しいと見るかは、人

それぞれですし、すぐにはよく

見えないこともあるので、すぐに

その否定な見解は話したことは

ありません。

そのことを踏まえて、次の違和感

のことですが、電動ろくろは機械

が回しているので、その回転や

スピードに慣れながら、成形する

コツを獲得しなくてはなりません。

それが基本ですから、それはわか

るのですが、次第に僕の場合は

基本80%もあればいいな、と思う

ようになりました。

徒弟制度のように年季を積めば

いいというのでもなく、楽しく

やるには自由な幅が必要です。

基本は何のためにあるかというと

自分の思い通りに成形するための

技術を学ぶということです。

すんなりとは行きませんが、どの

成形でも、茶碗でも皿でもできる

ようになったので、これをもっと

壊したいと感じるようになりました。

僕の求めるのはろくろを自由に扱え

る技術を習得することではなくて、

ろくろも巻き込んで自然とコラボ

させたなにができるかわからない

作品を目指すことです。

つまり、ろくろの不備な扱いに

拠って歪んでしまうことがよく

ありますが、それを回転を遅く

して、任意に起こして、いびつさ

のある作品も作っていいではない

か、という試みです。こういう

挑戦に僕はいつも惹かれます。

ろくろの技術を完璧に習得する

と習慣のように、きれいな器が

出来上がってしまいます。

だから、味を作ろうとすると、

自分で考える要素というのが必ず

加わることになります。

僕はそれをやりたくないのです。

極端なことを言えば、自分の意向

した作品など造りたくないのです。

なんでこんなものができあがった

のだ、奇跡ではないか、という

作品に出会いたいのです。

僕には到底考えても作れないだろう、

という作品に!

それが僕が器に求める無鉄砲な要求

だと知ったわけです。恐らく、真面目

な陶芸家は知らず知らずにそれを求め

ているはずなのですが、基本とか、

習慣の技法に囚われて、基本の

向こうにそれを求めますが、それ

は手前にある基本の技術(自分)

を一度壊さないと出てこないもの

だと僕は思うわけです。

一度壊して、それを自然に帰して

やる、そこから始めても別段、

おかしなことではないんです。

そう思えませんか?


:::

これは僕の陶芸への基本の想い

ですが、やはり芸術志向も、欲が

あって歴代の面白い作品を真似た

いとも思うわけです。ふつうに。
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生活の常識と鍋や料理からチラリ見えるもの [常識]

書くことの結果を遠方に求めると、

すぐに行き止まりそうな街に入っ

てしまって、書いても無駄だな、

行き止まりだと思ってしまう。

僕がそうしていたら、ブログを

書くということは不可能だった

に違いない。

例えば、朝起きて、今日はこうなる

のが予定だし、そう期待してその

予定通りにならないのは、誰でも

数日の日常経験でわかってしまう。

それはものごとのすべてが未知数を

抱えて動くからだ。外でさえそう

だし、自分の体でさえ、どこかで

怪我をしてもそれが普通なのだから、

朝起きて僕らはそれらを考えない。

うまく行かないことも多いと

わかったからと言って、会社を休ん

だりしない。営業ならなおさらで

昨日の成果は今日に期待すべきでは

ない、と前もって知っている。

生活はこのようだ。

これが正しいのは、皆がそう感じ、

そういうように無意識を装って

生きるからだ。朝起きて、ダメだ、

寝てようと言えるのは引きこもり

か、定年で退職したか、そういう

毎日暇に過ごせる人たちだ。

僕らが考えるのは生活上で家庭や

職場、仕事で何かあった時で何か

なければ考えない。または人生上

でなにかがつまづきになって、

自分の意向と衝突して、抵抗が

生まれた時だ。理解しがたいことが

起きていると、それは理解できない

から抵抗なので、自分の精神と心に

自分という主義や主張・思考・思想・

意志という方向性に道を譲ってくれ

ない、相手が認めてくれない、という

ことで起きる。

ところが、僕らは時計を見るように

ありもしない時間をそこに求める。

カレンダーを見て、去年と同じ日付

を見るが去年と同じ日ではない、と

はあまり意識しない。それは毎日し

ている習慣で、様々な言葉や記号も

自分の知っている意味は人も大体

同じ解釈だと思っている。そして、

誰もが不特定な多数の相手に対して

「思い込んでいる」事項だとは思っ

ていない。自分の(とは思ってい

ないが)常識は他人の常識だと

当たり前に思っている。そして、

異なっていたりすると、あいつは

おかしい、怪しいとなる。常識を

知らなすぎる、とかなる。


多くの一般人は自分の常識はほぼ

他人の常識でもある、例外はある

だろうが、くらいの範囲でしか

考えていないが、平均に均(なら)

すと、それは逆に近く、お互いに

常識を誤解している面があって、

それがバラバラで年代よりも

自分の経験に拠る社会経験が重く

ウェイトを占めて、その気持ちが

異なればそれへの考え方も大きく

違って来るものだ。その経験に

対してその人自身の性質や性格

を形成する強弱の傾向が、その

考えをつくるので、つくられる

常識は経験次第で大きく異なる

のが普通のことだ。

心理学は必要ないものだが、人の

心理については初歩的なことは

知っておかないと、他人の言葉を

そのまま信じるという愚を犯して

しまう。(相手は軽く言ったつもり

でも、真に受けると、後で裏切られ

たと感じるはずだ。それも社会経

験だが)

その場合でも信じる気持ちを残し

ておかないと、疑いは考えること

だから、終わりがない。疑いを

さらに疑うこともできてしまう。

その場合はどこまで信じるか、

どこまで疑うかというのは、愚問だ。

それは境界も範囲も問題次第で

なにも前もって決まってはいない

からだ。

つまり、相手の感情の重みの置き方

と思考の形成方向や意向を考えに

入れておかないと相手を間違えて

理解する、つまり誤解したままに

なる。

小手先なら「頭のいい人の考え方」

とか「頭のいい人の聞き方」という

ような表題の本を選んで読めば、

方法はいくらでも載っているだろう。

だが、それを判断するのはやはり

自分自身だから、自分の気持ちが、

また考え方が人とどう違うか、と

ある程度は見えないと、どんな本を

読んでも役には立たない。子供が

恋愛の本や小説で恋を知ろうとする

ようなもので思春期を迎えなければ、

その体験がない限り、本は役に立た

ない。

営業をやるとそこは鋭敏になる。相性

は占いの仮想だが、それに似た現象

は「気が合う・気が合わない」という

人間関係は日常で、また映画や動画・

小説などで頻繁に見ているはずだ。

狭い範囲での社会常識というのは

厳としてあるが、広い意味での社会

常識というのは誤解で成り立って

いると思っていい。

社会はそういういい加減さを必要と

している、実質は。しかし、建前

はそうではないと言い張るだろう。

なにもかもが理解できるような

教育システムに仕立てているからだ。

でないと、ウソやいい加減を教えて

いるのか、と抗議されてしまう。

会社に会社方針や会社の標語が

額に飾られていたりするが、会社

で精神統一を必要とするのかと

考えると、不思議な気がする。


自分を大切にするのが最も難しい。

自分を守るだけだったら、僕らは

多くは保身に走るから、本能的に

はできている。だが、教育で思想

という風を吹き込まれると、特に

子供時代には経験不足で、ある程度

の正鵠を得る判断ができない。

思想に染まるというのは洗脳され

たという意味で間違いない。子供

時代には最も知識を取り込むこと

と人間のためにあるのではない自然

環境とつき合うことが重要になる。

暴力とつき合うのは危険だが、軽い

暴力には接しておく必要がある。

それが何をもたらすのか、ある程度

の指の一本を失うくらいの痛みには

慣れておいた方がいい。軽いボクシ

ングで突き指する程度だろう。

中学の先生は登山で肉が見えるほど

の怪我をして、自分で縫い針で傷口

を縫い合わせたと自慢していた。

山だから、麻酔なしで。

人は自分が得意なことを知っている

から、そればかりに傾きがちだが、

自分が不得意とか嫌いだなと思う

ことでそれが未経験であったなら、

一度試してやっておく方がいい。

僕は料理をして、はまって中国から

フランスに渡ろうとして(料理の

国名だが)、はっと気がついて、

和食の基本に戻ったりした。

それらは塩が基本で、塩味の加減

がわかると、他の調味料も加減が

わかってくる。あとは焼いたり、

蒸したり、煮たりだけなので、

その時の材料の調理の順番が

わかってくれば、あとはそれらの

様々な統合なのだから、魚の

下ろし方も必要で、ともかくそれ

らをいろいろなトーンで合わせて

自由に料理すればいいだけなので、

冷蔵庫を開けて、残り野菜や

その他の材料を見れば何ができるか、

すぐに想像がつく。

ともかく面倒くさがり屋なので、

メインは30分以内でつくる。

材料は登場人物で、鍋や器は

環境、どのタイミングでどうする

かはストーリーを組み立てること

で、僕は料理は小説を書く時の

要素によく似ていると気づいた。

事実は小説よりも奇なり、という

言葉のように、生活は小説より

奇妙だ。こんなことという小さい

ことに取り組んでみると、意外

なことがわかる。

僕らはそのように事実と仮想の

言葉との間でそのギャップに葛藤

している。経験したら、自分で

よくよく考えることだ。出た結果

に自分の気持ちを切り替えるのが

最も難しいと思う。

例えば、先進国西洋人は神から

人が作られたことに満足している。

だから、人の祖先が猿であるのは

未だに納得しがたいことなのだ。

白人主義はいろいろに思想の形を

変えて、その裏に隠れて、・・

・・・・・。

心に隠されたものは誰もがそれ

知るのを嫌うものだ。僕らは無自覚

に自分を知りたくないと思っている。

自分をわかったつもりにはなりたい、

プライドで。しかし、そこまでは

知りたくない、という見えない、

聴こえない、届かない自分がいる。

そこが第一の問題かもしれない。


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