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へそまがり陶芸 屈人織辺日記 13. [陶芸]

秦野市の陶芸教室に通い始めた

のは、もう1年以上前になります。

ここでは陶芸の基本は何かという

疑問から、釉薬や土、焼成や窯の

ことなどあらゆることを聞いて、

手びねりから始めて、基本中の

基本を教えてもらいました。

僕ほどの質問をする人はいなかった

ようで、先生も本気になって考え

てくれました。ほぼ、知識を僕に

流してくれたのですが、・・。 


電動ろくろを陶芸教室で回しなが

ら、教わりながら、いつもの違和感

がこの半年間でだんだん大きくなっ

てきます。

そのままでは済まない自分の気性

なので、チョコを齧るようにちょ

こちょこ分析をいれることになり

ます。

今晩はそれが見えた気がしました。


その前に気になっていたことを話し

ますと、釉薬を塗って本焼きします

と、器は完成なのですが、出来上が

りは焼成の酸化と還元によって違う

のですが、窯の種類に拠って大きく

色合いなどが異なっていて、特に

自然のいたずらで変わった色合い

や味が出ることがあります。

これを景色と呼んでいることも多い

のですが、先生は陶芸への興味を

持たせる意味合いなのか、どんな

景色が出ても、いい味が出たという

具合に評価します。

これに違和感がありました。汚く

感じるような景色が出ても、感性に

逆らってもいいと言わなければなら

ないのでしょうか。僕にはすべて

がいい景色だとは思えません。

当然ですが、生徒さんの作品をけな

せません。

ただなにを美しいと見るかは、人

それぞれですし、すぐにはよく

見えないこともあるので、すぐに

その否定な見解は話したことは

ありません。

そのことを踏まえて、次の違和感

のことですが、電動ろくろは機械

が回しているので、その回転や

スピードに慣れながら、成形する

コツを獲得しなくてはなりません。

それが基本ですから、それはわか

るのですが、次第に僕の場合は

基本80%もあればいいな、と思う

ようになりました。

徒弟制度のように年季を積めば

いいというのでもなく、楽しく

やるには自由な幅が必要です。

基本は何のためにあるかというと

自分の思い通りに成形するための

技術を学ぶということです。

すんなりとは行きませんが、どの

成形でも、茶碗でも皿でもできる

ようになったので、これをもっと

壊したいと感じるようになりました。

僕の求めるのはろくろを自由に扱え

る技術を習得することではなくて、

ろくろも巻き込んで自然とコラボ

させたなにができるかわからない

作品を目指すことです。

つまり、ろくろの不備な扱いに

拠って歪んでしまうことがよく

ありますが、それを回転を遅く

して、任意に起こして、いびつさ

のある作品も作っていいではない

か、という試みです。こういう

挑戦に僕はいつも惹かれます。

ろくろの技術を完璧に習得する

と習慣のように、きれいな器が

出来上がってしまいます。

だから、味を作ろうとすると、

自分で考える要素というのが必ず

加わることになります。

僕はそれをやりたくないのです。

極端なことを言えば、自分の意向

した作品など造りたくないのです。

なんでこんなものができあがった

のだ、奇跡ではないか、という

作品に出会いたいのです。

僕には到底考えても作れないだろう、

という作品に!

それが僕が器に求める無鉄砲な要求

だと知ったわけです。恐らく、真面目

な陶芸家は知らず知らずにそれを求め

ているはずなのですが、基本とか、

習慣の技法に囚われて、基本の

向こうにそれを求めますが、それ

は手前にある基本の技術(自分)

を一度壊さないと出てこないもの

だと僕は思うわけです。

一度壊して、それを自然に帰して

やる、そこから始めても別段、

おかしなことではないんです。

そう思えませんか?


:::

これは僕の陶芸への基本の想い

ですが、やはり芸術志向も、欲が

あって歴代の面白い作品を真似た

いとも思うわけです。ふつうに。
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生活の常識と鍋や料理からチラリ見えるもの [常識]

書くことの結果を遠方に求めると、

すぐに行き止まりそうな街に入っ

てしまって、書いても無駄だな、

行き止まりだと思ってしまう。

僕がそうしていたら、ブログを

書くということは不可能だった

に違いない。

例えば、朝起きて、今日はこうなる

のが予定だし、そう期待してその

予定通りにならないのは、誰でも

数日の日常経験でわかってしまう。

それはものごとのすべてが未知数を

抱えて動くからだ。外でさえそう

だし、自分の体でさえ、どこかで

怪我をしてもそれが普通なのだから、

朝起きて僕らはそれらを考えない。

うまく行かないことも多いと

わかったからと言って、会社を休ん

だりしない。営業ならなおさらで

昨日の成果は今日に期待すべきでは

ない、と前もって知っている。

生活はこのようだ。

これが正しいのは、皆がそう感じ、

そういうように無意識を装って

生きるからだ。朝起きて、ダメだ、

寝てようと言えるのは引きこもり

か、定年で退職したか、そういう

毎日暇に過ごせる人たちだ。

僕らが考えるのは生活上で家庭や

職場、仕事で何かあった時で何か

なければ考えない。または人生上

でなにかがつまづきになって、

自分の意向と衝突して、抵抗が

生まれた時だ。理解しがたいことが

起きていると、それは理解できない

から抵抗なので、自分の精神と心に

自分という主義や主張・思考・思想・

意志という方向性に道を譲ってくれ

ない、相手が認めてくれない、という

ことで起きる。

ところが、僕らは時計を見るように

ありもしない時間をそこに求める。

カレンダーを見て、去年と同じ日付

を見るが去年と同じ日ではない、と

はあまり意識しない。それは毎日し

ている習慣で、様々な言葉や記号も

自分の知っている意味は人も大体

同じ解釈だと思っている。そして、

誰もが不特定な多数の相手に対して

「思い込んでいる」事項だとは思っ

ていない。自分の(とは思ってい

ないが)常識は他人の常識だと

当たり前に思っている。そして、

異なっていたりすると、あいつは

おかしい、怪しいとなる。常識を

知らなすぎる、とかなる。


多くの一般人は自分の常識はほぼ

他人の常識でもある、例外はある

だろうが、くらいの範囲でしか

考えていないが、平均に均(なら)

すと、それは逆に近く、お互いに

常識を誤解している面があって、

それがバラバラで年代よりも

自分の経験に拠る社会経験が重く

ウェイトを占めて、その気持ちが

異なればそれへの考え方も大きく

違って来るものだ。その経験に

対してその人自身の性質や性格

を形成する強弱の傾向が、その

考えをつくるので、つくられる

常識は経験次第で大きく異なる

のが普通のことだ。

心理学は必要ないものだが、人の

心理については初歩的なことは

知っておかないと、他人の言葉を

そのまま信じるという愚を犯して

しまう。(相手は軽く言ったつもり

でも、真に受けると、後で裏切られ

たと感じるはずだ。それも社会経

験だが)

その場合でも信じる気持ちを残し

ておかないと、疑いは考えること

だから、終わりがない。疑いを

さらに疑うこともできてしまう。

その場合はどこまで信じるか、

どこまで疑うかというのは、愚問だ。

それは境界も範囲も問題次第で

なにも前もって決まってはいない

からだ。

つまり、相手の感情の重みの置き方

と思考の形成方向や意向を考えに

入れておかないと相手を間違えて

理解する、つまり誤解したままに

なる。

小手先なら「頭のいい人の考え方」

とか「頭のいい人の聞き方」という

ような表題の本を選んで読めば、

方法はいくらでも載っているだろう。

だが、それを判断するのはやはり

自分自身だから、自分の気持ちが、

また考え方が人とどう違うか、と

ある程度は見えないと、どんな本を

読んでも役には立たない。子供が

恋愛の本や小説で恋を知ろうとする

ようなもので思春期を迎えなければ、

その体験がない限り、本は役に立た

ない。

営業をやるとそこは鋭敏になる。相性

は占いの仮想だが、それに似た現象

は「気が合う・気が合わない」という

人間関係は日常で、また映画や動画・

小説などで頻繁に見ているはずだ。

狭い範囲での社会常識というのは

厳としてあるが、広い意味での社会

常識というのは誤解で成り立って

いると思っていい。

社会はそういういい加減さを必要と

している、実質は。しかし、建前

はそうではないと言い張るだろう。

なにもかもが理解できるような

教育システムに仕立てているからだ。

でないと、ウソやいい加減を教えて

いるのか、と抗議されてしまう。

会社に会社方針や会社の標語が

額に飾られていたりするが、会社

で精神統一を必要とするのかと

考えると、不思議な気がする。


自分を大切にするのが最も難しい。

自分を守るだけだったら、僕らは

多くは保身に走るから、本能的に

はできている。だが、教育で思想

という風を吹き込まれると、特に

子供時代には経験不足で、ある程度

の正鵠を得る判断ができない。

思想に染まるというのは洗脳され

たという意味で間違いない。子供

時代には最も知識を取り込むこと

と人間のためにあるのではない自然

環境とつき合うことが重要になる。

暴力とつき合うのは危険だが、軽い

暴力には接しておく必要がある。

それが何をもたらすのか、ある程度

の指の一本を失うくらいの痛みには

慣れておいた方がいい。軽いボクシ

ングで突き指する程度だろう。

中学の先生は登山で肉が見えるほど

の怪我をして、自分で縫い針で傷口

を縫い合わせたと自慢していた。

山だから、麻酔なしで。

人は自分が得意なことを知っている

から、そればかりに傾きがちだが、

自分が不得意とか嫌いだなと思う

ことでそれが未経験であったなら、

一度試してやっておく方がいい。

僕は料理をして、はまって中国から

フランスに渡ろうとして(料理の

国名だが)、はっと気がついて、

和食の基本に戻ったりした。

それらは塩が基本で、塩味の加減

がわかると、他の調味料も加減が

わかってくる。あとは焼いたり、

蒸したり、煮たりだけなので、

その時の材料の調理の順番が

わかってくれば、あとはそれらの

様々な統合なのだから、魚の

下ろし方も必要で、ともかくそれ

らをいろいろなトーンで合わせて

自由に料理すればいいだけなので、

冷蔵庫を開けて、残り野菜や

その他の材料を見れば何ができるか、

すぐに想像がつく。

ともかく面倒くさがり屋なので、

メインは30分以内でつくる。

材料は登場人物で、鍋や器は

環境、どのタイミングでどうする

かはストーリーを組み立てること

で、僕は料理は小説を書く時の

要素によく似ていると気づいた。

事実は小説よりも奇なり、という

言葉のように、生活は小説より

奇妙だ。こんなことという小さい

ことに取り組んでみると、意外

なことがわかる。

僕らはそのように事実と仮想の

言葉との間でそのギャップに葛藤

している。経験したら、自分で

よくよく考えることだ。出た結果

に自分の気持ちを切り替えるのが

最も難しいと思う。

例えば、先進国西洋人は神から

人が作られたことに満足している。

だから、人の祖先が猿であるのは

未だに納得しがたいことなのだ。

白人主義はいろいろに思想の形を

変えて、その裏に隠れて、・・

・・・・・。

心に隠されたものは誰もがそれ

知るのを嫌うものだ。僕らは無自覚

に自分を知りたくないと思っている。

自分をわかったつもりにはなりたい、

プライドで。しかし、そこまでは

知りたくない、という見えない、

聴こえない、届かない自分がいる。

そこが第一の問題かもしれない。


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夜も終わりに近づく頃 [カケナイ]

10月16日頃から疲労が始まっ



た話はしたと思う。気がつか



なかったが、僕は非常に夏バテ



するタイプだ。持病もそれで



始まったくらいだ。



観測史上最大の夏日が続いた



のも、夏バテがそれに合わせて



遅れて来たのも偶然ではない



気がする。



改めて調べると、10月15日が



新月で、ひどくなったのが満月の



29日だったので、月に合わせて



具合が悪くなったのが顕著だ。



子供の頃からそれは変わらない



ようだ。



・・・・・・・・・・・・



書けない。



カケナイ。



気持ちいいほど、



かけ(そば)ない。



表現する筋肉の動きを感じた



つもりだったが、いままでそれ



でよかったものが、ない。







アンモナイトみたいだ。(いつもの



なんもないとは違う、なんもない=



充実した闇とは違う平凡な空虚)



書けるという状態が8年も続くと、



それが当たり前になってしまう



からどこかで「書けること」とは



別に一種の義務感みたいなものを



背負ってしまう。



終わらないと思っていた旅が意外



にも宿屋を出たら終わっていたの



を知る、そんな気分。



それはそれで肩の荷を下ろした



ような軽い爽快感がある。



紀行文や観察日記みたいなもの



も書いてみたいので、なにかが



どこかで始まってもおかしくない。



イメージや発想がなくても文章は



それなりに修業したから、文章が



書けなくなるわけではない。批評



の対象はどこにでも転がっている



し、・・。



詩はわからない。



あれは向こうから来るから。





ジャガバタのバターが唇に残る。



朝起きると、あれほど起きる直前



まで小説を何度も書き直し、書き



直し、書いていたのに無意識に



忘れてしまおうとする。空間も



概念も物質化する異次元的に複雑



で不可解になった夢にはもう謎解



きの楽しみはなくなった。そんな



項目のある夢判断はないのだ。



夢が進化するものだとは思わな



かった。



ユングが墓場まで持って行くつも



りだった夢を、誰かが聞きだす



企画をして、ユングも初めは嫌が



ったが、話すうちに興が乗った



のだろう、随分長い本が出来上が



った。「ユング自伝1・2巻」それ



はオカルチックで恐怖とファンタジー



の神話じみたドロドロもある夢の



世界だったと記憶するが、彼は



それを解釈するために世界中から



古代の神話を集めていたのかも



しれない。



僕も同じく、中国の山水画の発祥



を調べ始めている。



ユングの本は10冊も持っているか



と思うが、例によってまともに読ん



だ本も、読み通した本も皆無だ。



ただ、「無意識も意識だ」か「無



意識という意識はない」のユング



の短い言葉で無意識の在り方を



直感出来たので、大きい発見だっ



た。



水道を温水にして、洗顔などする



が、冷たい水のほうが皮膚には



良いのかと迷いながら、上高地の



梓川の氷よりも冷たい?水を思い



だす。



なにか夢や希望のある言葉を探すが、



特に何も出てこないのを確認する。



それを常識でカバーして修飾を



書こうとしないのはいつもの



通りだ。



どんな日常の事実にも僕らの思考



の幅、予想や予感を超えた性質や



状況などの要素を必ず含んでいる



というのが、信じられるからだ。



それがこうして辿り着いた生活なの



かもしれない。



まだ、バターの匂いの唇が気になる。


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戦場をかける猿という風刺 [人間とは何か]

猿のは臭(くせ)え。

なにが臭いのかは知らなかったが、

当時映画「猿の惑星」がシリーズ

になってからは、そういうジョーク

が巷を流れた。古い話だ。

浅く、流すように始めは始めたい。

友人のメールで「猿の惑星」の文字

を見たので、懐かしく思った。

このSFは大ヒットした。1968年に

映画化されたのだから、僕は親離れ

していたはずだが、思い違いか、親

父に連れられて映画を観たように

記憶している。50年以上前ではな

いか。

あの往年のフランク・シナトラが

と言っても知らないか、「マイウェイ」

をロサンゼルスで録音した当時で、

世界はビートルズ旋風が起きていた

頃だ。

もう帰ってこない時代よ!、とか

感傷を気取っても、ロマンな気分は

今も十分に還ってきている。

自分を思い出そう。あの頃に自分は

どこでどう生きていたのだろう。

だが、実際はたかが青二才だ、知っ

てどうする。何も変わらない。

あるのは、この気分だけだ。

自分の道を生きようとしたじゃな

いか、頑張ってみようとしたじゃ

ないか、と。当時はまだそういう

雰囲気があった。

1964年には東京オリンピックが

あった。この前年には、ベトナム

戦争を拡大させたJ・F・ケネディ

大統領が暗殺された。

ケネディは枯葉剤を散布するのを

許可して批判されたのでも有名だ。

枯葉剤は8万6000リットルも散布

されたらしい。マラリア予防とい

う名目だったが、農作物を根絶やし

にしてゲリラの補給を断つ目的だっ

た。そのため後に奇形障害や遺伝

障害やがんなどの後遺症に苦しむ

ベトナム人民は15万人に上った。


ケネディ政権下の国防長官はマク

ラマナだった。IQ値が高く、「測定

出来ないものは管理できない」と

いうビジネスの法則も用いる戦略家

(素人?)で、ベトナム戦争をアメ

リカの敗北に導いた。

片や、北ベトナムではホー・チ・

ミンがいた。彼が建国の父と呼ば

れ、第一次インドシナ戦争では

独立に向けて強力にリーダーシップ

を発揮したが、ベトナム戦争では

軍事権を将軍?に握られ、ラジオ

で国民に毎日士気を鼓舞して、

人民の士気を高め続けた。精神的

な支えとなり、戦争の指揮はしな

かったが、人気が高かった。

米兵はそれで誰が敵かわからなく

なった。子供が持ってくる食べ物

でさえ爆弾であることが多かった。

米兵は疑心暗鬼になり、ゲリラが

村に紛れ込むと、その村民ごと

一つの村を焼いてしまうという

大量虐殺にも出た。

村人に大事な戦友である仲間や

一人前に育てた若い米兵を殺され

た米兵の上官は手段を選ばなかっ

た。

米兵は怖かっただろうが、子供を

送る親もいたのだから、子供が

途中で爆死してしまう可能性だ

ってあっただろう。それでも戦争

協力をしたのはそれだけ気持ちが

ホー・チ・ミンで団結していたの

だろう。

IQの理論家マクラマナ長官が負け

たのは、その人民の底知れない

士気の高さだったのだ。子供も

親も勝つことだけに集中していた。


「猿の惑星」はその衝撃的なラスト

シーンで内容も併せて、僕らの常識

を打ち破り、なにかを教えた。

ラストで宇宙飛行士の生き残りは

ここが人類が滅んだ地球であること、

他所の星ではなく地球に還ってきた

ことをを思い知らされる。それは

海岸に沈んだ自由の女神の半身が

傾いた姿によってであった。

猿の惑星.png

この圧巻のシーンは原作とは異なり、

脚本をまかされたロッド・サーリング

が冷戦の要素を加え、猿の惑星の正体

は核戦争で荒廃した未来の地球、と

結末を変えた。後に「戦場にかける橋」

の脚本を担当したマイケル・ウィルソン

は冷戦の要素とエンディングシーンは

サーリングのまま残した。

監督はフランクリン・J・シャフナー

は宣教師の父のもとに生まれ、16歳

まで東京で過ごしている人で、後に

晩年には全米監督協会の会長を務め

た。

この映画は成功したが、その原作を

書いた当初も本の成功は期待もして

いなかったのが作者のピエール・

ブールだった。だが、ベストセラー

になった。

猿の惑星の映画のひとつ前のピエール・

ブールの原作で映画になった作品が

「戦場にかける橋」である。

内容は第二次大戦のタイで物資補給

の鉄道のためにクワイ河に橋を架け

るための捕虜英兵・仏と収容所の

日本兵とのプライドと葛藤を描いて

いる。

それを観たのだろう、親父はそれぞれ

の国の国民性・気質がよく描かれて

いる風なことを言っていた。

猿の惑星は支配者と奴隷の関係が

人間と猿(動物)との関係で逆転し

てしまうことで、人間とは何か、を

描こうとしている。だが、ここまで

に明らかに「戦場にかける橋」の

テーマである人種差別などを超えて

来たので、その元のレベルを書こう

としたのかもしれない。

猿の惑星はシリーズになり、最近

リバイバルでリメイクされたので

知っている人も多いが、戦場にかけ

る橋は、さすがに知らないだろう。

原作本を購入したので、それを

読んでからはたしてブールの

捕虜時代の感情はどういうもの

だったかなど考察を加えてみたい。

かなり、後に遅れるが次回に:-
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ためらいと ジャズと ため息 [詩もよう]

ため息をつきたい状況というのは

あると思う。それが理解しづらい

のだが、ため息をつくのをためらう

という状況もあるのだ。

だいぶ、子供の頃に江の島の水族館

に連れて行ってもらったことが

あるが、半月のように切り取られた

その映像が昔の匂いをさせている

のだ。

何億とかある?体の細胞のひとつ

の記憶などは充てになるものでは

ない。散歩には宛てがないが、

考えれば、いつものコースか、

その隣の道を辿っている。

強くならなければ、という想い

をしたことがあるだろうか。そう

いう想いもあるのだな、と思う

時、心は若さに向かうようだ。


長く緊張と忍耐を迫られる旅と

いうのはある。数十年も続くこと

もある。明日はよく知れるよう

になる頃、未知の感覚に気づき、

お隣さんが近未来ばかりになっ

て、それは恐怖や不安という

よく出会う輩が通り過ぎて行っ

てしまうことでも、ある。


無意識に巣食う見えない扉を

開けることは多くない。だが、峠

を越えてみると、これまでの景色

よりもさらに広がる世界という

もの、がその先に続くのを見る。

地平線に見えてもそこは山の端で、

うねった山脈の遠すぎる姿なのだ。

そうなると、ただ歩き続けること

が永遠に続くのだ、とわかる。

いくら汗をかいても、その汗に

溺れたとしても、終わりはない。

最後に何があるかと思うと、蟄居

して精神的な冒険に出ることだと

思うが、自然に触れもしない冒険

は危険がなく、笑いながら逃げる

ような面白味に欠ける。


他人の熱いパフォーマンスには

自覚もないままアルコール中毒も

求めて、まだコンサートの密集し

た狭さが希薄なうちは安全だと

承知しているように思えてし

まう。

階段を上りたいのに、回り道しか

ないようなもので、角を曲がると

大抵はそこにあるはずの階段は

遠のいている。さらに回り道を強い

られるといった寸法だ。

より慎重で落ち着いた対応が目の前

にできるのだから、それが求めら

れているのだろう、と誤解もするが、

実際はもっと単純な道が見えていな

いだけなのかもしれない。

だから階段を上ったら終わりになっ

て安心できるという考えを改めなけ

ればと、まず思う。


ジャズをヘッドホンで聴いていると、

階下から呼ばれてもまず聞こえない。

闇とか黒雲から衝動がやって来るが、

暴れたいのではない。ぶつかる対象

が見つからないだけだ。

そう、ためらいなどないのだろう。

バーのドアを勢いよく開けても、

そこには過去しかないのなら、まとも

に背筋を正して、落胆がある。それ

が億劫な気分なのだ。



まだ夜明けを待つような気分じゃ

なぁい。

デカパンだよ、大麦か?

クレオパトラは こんな 

不味いパンを 食っていたのか?

ヘッドロックを 見世物にして 

宴に 酒は 欠かせなかったろう 


ハッピーに なりたかったら 

ん、nn 苺を  おごりなよ 

お前の チャンネルを 変えなよ 

心の 鍵を  開けるのさ 

すっぱ 甘い 

いいことばかり じゃないさ 

廃れた色の  ガタついた椅子に 

坐っているのは その せいさ 

世界は 崩れない 

夜明けまで  飲んで 

他の奴に  頼って 

足がもつれても  まだ  

だいじょうぶ 

ほんとに 投げ出すまでは 

僕らは  壊れない 

その時は ある

もう壊れたいと 深い ため息が 

カーテンが  窓を 

覆うように 


チップを 投げ捨てるように 

弱さを  川に

弾き 飛ばせない nだ

絶望しなければ 希望は 

持てない んDa 

絶・・とか  希望とかは 

うんざりして 

夢にも  見なくなったな 


ブルースよ お前は いい 

誰かのドアを 叩く 

行き着く 先の その

誰かが  わかっているのだろう 

煙草の  銘柄は 知らなくても 

けだるい煙に むせるのは 

よく 知っている


そう ゆっくり 歩いて  

絹のような  足裏の 

感触は  サクソフォン 

街の 鳥かごに 居る 

丸(まある)い眼の  猿の子は 

自分も 

知っている 

誰か ₋  なのだろう 



君を 知ってるよ とは 

言われるだろう  けれど 

君は 何だろう、 とは 

思われたことも ない気が 

する 

甘ったるい 言葉が 

好きなのでは ないが 

そのくらいに  濃い 

ささやきを  聞いては 

みたい 



影が  虚ろい 

朝は  まだ  遠い 


夜に  帳(とばり)が 

あるとは 



今のは  ため息? 


・・・・・・

さして ここには・・



な なるほど 

る ルは 思い浮かばない 

ほ ほどよく 

ど 泥に浸かっても  

 柔かな 落ち着く、 リズム

 生ぬるい ほどいい 



君は ソファから 立ち 

から・・たち  

カラタチ の 花

今 横切った 気は?

けれん味  

音のある 静けさと

しびれを 切らした 項(うなじ)

心を 引きずる  

そうして 君は 

もう 枯れ切った 廃墟に 

なりかかった 街 

人を

その

待ち伏せ を する 



寂しさの 

待ち伏せ を する 



やさしさを 

手の平に  乗せて 


待ち伏せ を ・・

する 




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座間市と僕 戦争とヒント [戦争]

座間市では午後4時半と5時に鐘が

鳴る。工場で働くと休憩時や終業時

に聞く鐘の音に似たような音だ。

それで時間がわかるので、今聞いた

のは4時半なので、もうそんな時間

か、となる。

座間市にはたしか、27年居る。もう

そんなになるか、ではあるが、妙に

実感はない。

そして、座間市特有の思い出という、

なにかもない。特徴があるのだろうか、

ここは、と思うぐらい改めて考えるが、

なにも思い浮かばない。

小田急線の座間駅は遠く、ここは台地

なので起伏がある。その起伏に橋渡し

をした最寄りの駅「さがみ野」のほう

が身近に感じる。自転車で行けるので

日常生活の動線はさがみ野駅と自宅

が動線でつながっている。

座間市役所は選挙の時に事前投票を

することが多いので、それで市役所

にお邪魔する、といった感じだ。

特にないなぁ。


平成が令和になった時に不吉な感じ、

不穏な時代の飛来を予感した、ような

気がした。コロナパンデミックが来て

それみろ、と。 大地震が頻発して、

やっぱり、ロシアが戦線をウクライナ

に仕掛けて、思った通りだ、そして、

ハマスが汚い戦法で自分らの危機的

状況を解放しようとして、最悪の手段

で戦線を開いた。ますます拡大する

方向を示し始めた、この時。

その現実面と比例して僕の内面では

古代の神をつくった古代人たちに

その信仰の中になにか生命と知性に

関わる何かがあると直感する一連の

出来事があった。

これは人知れずのショックで一気に

現実と相俟って神経が揺さぶられ、

体調がダウンしてしまった。

それが10月16日以降、これまでの

意味不明なグダグダの疲労感への

診断だが、半分以上は実際そうな

のだろう。

29日の満月に直接の引き金があった

らしく、1日10時間以上間歇だが、

翌日から延々眠る日々が続いた。

それも4日目の昨日から回復し始めた。

今日も昨夜、3時間寝てから目が冴え

て、3時間起きていて、また寝たので、

今日の午後2時過ぎまで体が動か

なかった。疲れが、・・・。



これまでも戦争について詳しく書い

ておきたいとは思っていたが、最終

にその解決案は今の時点では望めな

いことがわかった。

わかっていたと、「皆と似たような

解決案になって、」と考えたので、

そこをもう少しどうにかしたかった

のだが、きっかけが得られなかった。

しかし、戦争の様相は書いておいて

もいいのではないか、とウクライナ

とパレスチナの惨状を見ていて、

思うようになった。

戦争の様相は何か。その何かの雛形

をヒントとしてさわりとして今は

書いておくだけでもいい、と考えた。


ムウ大陸という、空想の大陸では

ないが、ムゥーウー・・と唸って

しまう。ちょっと考えただけで

テーマが複合している。ヒントと

言ったが、それをヒントにまで

凝縮、簡易整理するのは力技で

力を入れ過ぎればなにかを主張

する極論・暴論になってしまう。

その傾向が強まってしまう。

歴史を見捨てて、概論の概念から

で済ませる方法もあるが、それは

解決から一番遠い方法である。

だから、考え方のヒントとしては

どうして戦争が起きてきたのか、

その経緯を人間の心理と経済・権力・

(市民には重要だが、支配者には

見せかけの)信仰・宗教という

ものから考察するのがひとつ。

それはイスラムとか旧約・新約とか

ではなく、神の支配方法に深く関連

している。そこは西洋を中心に、

東洋はすこし、それよりも形を変え

ていることを注目。

人々はなぜ神を信じるのか、信じた

がるのか、無神論は神を想定しなけ

れば、存立し得ない立場であること

にも注目。

旧約聖書やコーランを一字一句読ん

で研究する暇はない。もっとランダム

に読んで短時間で理解してしまう

ことは必須。そして、それは自分で

考える為の第一段階という基本だと

の自覚も必要。

それでも選択される資料や情報は

5000にも上るのだろう。(1日5冊

目を通しても、単純かつ簡易な計算

でも3年以上かかる)

僕は1990年頃から始めたから、

その思想が思惑くらいになるまで

に20数年を要した。のんびりやっ

たものだ。肝心なのは今、この時

に向き合うのか否か、ということ

で今向き合う気持ちがなければ、

すぐ3年5年は経ってしまう。何度

も振り返って思う教訓だ。ゆっくり

がまず大事だが、確実に続けること

が車の両輪のように肝要だ。




戦争論は二つある。戦争を起こす側

である権力側の戦争論と、戦争反対

の市民論である。これは国家と個人の

違いであると同時に、大まかに見る

ならば知性(の悪用)と感情(まかせ)

の対比でもある。ここに注目して考察

をふたつ関連付けて、よく考えること

が必要。

戦争を起こす側にとっては国民の

耳の一方を塞ぎ、都合の良い一方

(政府のプロパガンダ)に傾ける

ことは必須で、中国やロシア、北朝鮮

の情報統制はそれをよく示している。

また現在の日本も戦後の影響や反日

の影響で世界での常識な情報が隠さ

れることが多く、大新聞もマスコミ

も一部でしかそういう報道はしない

のが現状、その歪んだ状態は調べる

気になればわかる。ただ、陰謀論

などに肩入れする人はどうしても

その心情で偏ってしまうので、

あまり肩入れしない覚悟が必要。

それらを公平にこなしているうち

にわかることだが、戦争論のどちら

もその立場を表明しているので

どちらも正しい。そして、どちら

も心理的には相手に成否を委ねて

いる。支配は市民の暴動を恐れて

監視を強めるのは必須。市民は

生活の基盤は政府の指導にあると

考えるから、自分らがすることで

はないと、(自覚なく)見て見ぬ

ふりする。よほど追い込まれない

限りは、自由を求めない。

庶民的な自由の程度、それは幸福

の在りかなのだが、そこに落ち

着こうとして保守する、それを

維持しようとする。

それらが本来正鵠を得た知識で、

またそれらを本質から掴めば、

保守だろうと、改革だろうとその

全体図から幾通りにも解決案が

出て来る。そして、その現実は

そこからはほんとうの未知の問題

が浮かび上がることだ。以上。



なので、それら時間のかかる事項

はさておいて、今、念頭に置いて

おきたい戦争について初めに認識

したいことを話す。 認識すべき

は世界の富や領土への欲を恥ずべき

と思わない人たち=「戦争の遂行者

は戦争を必要とする者」たちだ、と

いうことだ。彼らにはそのために

常に敵なるもの・国が必要なので、

いなければ自ら作るだろう、敵国

を仕立て上げるだろう、という

ことである。

これが唯一の戦争が終わらない

理由だ。または大きな理由だ。

ジョージ・ブッシュ・ジュニア

大統領は9.11が起きた時、これは

「戦争だ」と演説で言った。断っ

たのだ、これから軍拡産業が儲かる

戦争を始める、ということを。

犯罪として処理するなら、戦争に

拡大する必要はなかっただろう。

実際にテロ組織が拡大していたに

しても、テロへの恐怖を拡大させ

る必要があったのだろう。

戦争の恐怖が身近である限り、

銃も砲弾も防御装置も、陸・海・

空で戦争関連のものが多いに売れ

る。だから、大量消費の代表である

戦争の必要程度の拡大と収縮は、

政策と戦略上の裏の必要事項なのだ。



それをどうするかのヒントもいる

だろう。例えば、ニュージーランド

は政府に民意が反映する機構を

採用しているようだ。この形態も

参考になるだろう。

社会主義国のキューバでは今でも

国民への支給は月3000円くらいで、

パンは1個20円、大学まで学費は

0円、性転換手術も理由がしっかり

あれば、これも0円、今でもそう

なのだろうか。

文豪ヘミングウェイ・ノーベル賞

作家は晩年の20年をキューバで過ご

した。キューバで往年のキャデラッ

クが走るのは車を輸入できないので、

修理しながら走らせているのだろう、

そんなキューバで彼はなぜ自殺した

のだろう?2度の飛行機事故で心身

の不調障害が原因?

脱線すると、連想は興味が尽きない。


探す気になれば、ヒントはいくらでも

ころがっている。戦争反対を訴える

声は当たり前に必要だが、戦争「賛成」

の人々の欺瞞・理屈を理解しないと、

僕らは一歩も進むことができない。

戦争の記憶を止めて伝える、という

子供の教育活動や戦争被害者が過去

に向かっただけの演説では拉致が開か

ないのだ。

僕らは戦争はなくならないと決めて

いる。誰に聞いたのだ?その名前は?

そういうように思いこんだというの

は、事実なのか、それともなくなら

ないという歴史上の事実が続いてい

るだけなのか?それを誰が決められ

るのか?君か?



座間市という街はある。事実として

動かない。だが、少し離れただけで

座間市も日本も一緒くたに儚く見え、

それが(または戦争が)あるという

実感が湧かない。


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休憩日記3.ラスト 月の背景(補色)はなにか [日記]

10 . 29 - 30

今日は満月。

夕刻にはまだ月が昇っていなかった。

日も替わる深夜には真上に出ていた。

「皓々と」という日本語がよく当て

はまる輝きで、周囲が暗いので

眩しい。老眼と眼鏡の所為で月から

放射状の光が出ているようで、見え

たり、消えたりするが、右上に伸び

る光はひと際強く輝いて、レンズに

まっすぐ伸びていた。

1分も経たないうちに首が痛くなっ

て、少し歩いてカーポートを出て、

また月を見る。わずかに右端が

欠けているように見えるのは、昼間

のうちに満ちたからだろうか。


なにか満たされて、玄関に戻り

家に入る。この満たされ感は、よく

わからない。気持ちが満たされた

というよりは、精神的な気がする。

が、それなら胸よりも胃よりも

別な部位の臓が満たされるのでは

ないか。胃はハンバーグを入れて、

満たされてはいるが。


家に入ると、まず白っぽい壁に

月の残照が青で映った。青?赤の

補色ではないか。だとしたら、月

の光は赤だったのか?そして、

3階への階段の照明を消してから

上ると、眼球の奥の月の残照は

赤いやや小さな点だった。その

周りは青い光がギザギザに輝いて

いる。赤?その補色は青ではない

か。さっきの補色の赤が青の補色

を生みだしたのか。こんな短時間

で?


どうして眼球のプリズムは赤と青

を交代で10秒くらいの間隔で交代

して補色を網膜に取り込んだのだ

ろうか?


学校で習った基礎的な知識では

こういう応用と言うか、変化には

対応しきれないようだ。眼は本当

は何かをどのように見るのか、

どういう構造とその関連で見る色

が変わるのか。まだ調べる気には

なれない。それほど満足した満月

だった。


気も充実してきたようだ。月の気

に十分張り上がるものを感じる。

それが僕を興奮させる。あと3日

もしたら、休憩を切り上げよう。

改めて、生活というものを目の前

に空気を固くするように凝縮させ

ると、それを手の平で潰せるよう

な感覚になる。


あと3日、ちょうど11月になる。

神無月は十月のことだが、旧暦

では今年は11月13日かららしい。

来年は11月1日からとなる。

諏訪地方では出雲の神が分身して

昔、日本海から信濃川、千曲川を

渡ったらしい。諏訪に住み着いた

神は出雲には帰らない。それで諏訪

でも10月は出雲と同じく神在月と

いうらしい。これはあまり知られて

いない。だから、学校でも教えない

のだろう。映画「神在月のこども

(2021)」はこの諏訪地方の神在月

を扱っている。

この世で充てになるものはなにも

ない、のだ。足で歩いて探すのが

一番。でも、最初はネットを開く

のだろうな。
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半分の随意が移行する迷想 [迷想]

はじめに、<休憩日記 2.

 10. 23 月 

休憩は続く。


習字の練習をする。準備は2か月

も前に済んでいたのでようやっと

という処だが、半紙に3枚書いた

だけで(2か月前、始めに半紙

半分書いて、あまりに下手だし、

面白くないので中断した)、字が

まとまってきた。手本は持って

いるが、それを見て書こうとは、

思っていない。

なぜ書くか?

相変わらず、書道とは何か?とい

う疑問のためだが、少し、書道と

いうものに欺瞞を感じている。

それはどうして感じるのか、それ

を明らかにしたいのだろう。



<半分の随意が移行する迷想

上弦の月が少し膨れ、昨日が半月

だったことがわかる。駐車場で

暗い影にすっぽり覆われる処を

探してそこに姿を晦ませて、月を

よく見る。

少し歩こう。

近隣の小さな公園まで歩く。

遊具はブランコと滑り台、鉄棒が

あるだけで他は雑草が広がる。切り

残された桜の木が三本ある。

その広場に立つと、月が遠くなっ

たのがわかる。民家が少し遠くなり、

視界が開けたので、月が遠いのも

ふつうに錯覚だ。周囲との間が開く

と、対比の関係で月は小さく見え

るのだ。

感動して、夜に外を散歩したくな

るのはそうそうはない。

TV番組のSFで「ぺリフェラル」を

観て、リアルを感じたが、それが

何かはまだわからない。それで外

を歩きたくなった。

この「ぺリフェラル」は映画「マト

リックス」以来の感動・衝撃もの

だった。1999年以来となるから、

24年ぶりだ。

原作はウィリアム・ギブスンの小説

でその出だしの音楽と映像からもう

その兆しがあった。興奮して、期待

が高まったのだ。いつもと違うのは

落胆しなかったことだ。

久しぶりに面白いものを観たと思っ

た。特に驚いたのは、調べてからだ

った。作者は僕よりも2歳年上だった。

つまり、同年代の人だった。

僕からでも設定が斬新で会話が予想

された返答の先を答えていて、すぐ

に質問が切り出される、といった

知性的なスタイリッシュさだ。それ

でいて情感が保たれ、格言じみた

意味ありげな暗喩が飛び交う。


僕はひんやりした夜を歩きながら、

考えた。ぺリフェラルはパソコンの

周辺機器のことだが、副題は接続

された未来、で未来世界が現在に

失われた(盗難された)データを

取り戻すために接続して来て、未来

世界との部分的な頭脳戦争になるの

だが、アメリカドラマによくある

ドライな展開ではなく、登場人物の

個性が光り、またその情感にドラマ

進行が左右される。ポップス、軍隊

経験、農場に未来技術が加わり、

未来世界では空間をスクリーンも

なしで指先で操作して、空疎な現実

ににぎわう人々の映像をかぶせる

ことができる。ほとんどその技術が

バイオテクノロジーで体に埋め込ま

れている。そして、そのアンドロイド

じみた人間そっくりのロボットに

移入して、主人公たちが活躍するのだ。

月を見ながら、考えるに、この現世で

僕らが使っているのが時間でそれは

存在しないだろう。だから、この

時間の概念から未来への転送とか

信号でのバーチャル的な移送を考え

るのは無理なだけだ。

しかし、このドラマではパラレルの

世界を考えている。これはいくつも

の時間軸が無数にある世界をいう

ものだが、ふつうはその理解に時間

軸が使われ、考えられているが、僕

らの時間では無理だが、パラレル

世界は時間の考え方ではなくても、

存在は可能だ。その時は時間に代わる、

別な種類・概念の軸が必要になるが、

その考え方はまだないか、まるっき

り実存しないか、まだ発見されてい

ないか、だ。

僕がリアルさを感じたのは、その未

発見の新しい時空軸のことではない

のか、と思ったことだ。この作者は

僕は尋常ではない、と思う。まだ

インターネットも知らない直近の

時代で早くもそれらしいSF小説を

書いて多くの賞を受けている。

まだ読んでいないので、具体的に

書けないが、なにか飛び抜けた

ものをこの人は受けたのではない

だろうか、とまで思わせる。

それは完璧にインスピレイション

の世界のことだろう。そして、何

らかの事実を含んでいる、そう

したものだ。


迷想は楽しい。マトリックスに

未来は感じなかったが、それは

想定内のおとぎ話だとわかったが、

ペリフェラルにはなんらかの未来

の具象な感触がある。確かにそう

感じた。




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無制限一本休憩(勝負?) [休憩]

2023年10月16日の記事になりま、。。。



最近はブログに集中していない

自分を思う。これまでは書くネタ

を隙間時間にでも考えるだけで

よかったが、それは無自覚な時間

になんとなくテーマごとに考えて

いたからだと、これも意識でき

ないが、なんとなく知っていた。

それも今では準備していないよう

なので、書く回数がこれまでより

どんどん減ってもおかしくない

くらいに思う。

思ったよりも長生きしそうだと

初めて思ったのも変だが、長生き

志向ではなく、逆に長生きしたく

ない志向だったので、先日にここ

に気づいたのは人生初めてで、変

な展開になった。

そうすると、あと10年は時間が

取れることになり、10年はひと仕事

の単位だと考えているから、まさに

最後のひと仕事が待っていると考え

得るということ。

それでほんとうに考え、悩んでいる

始末なのだ。  が、

人生最後は趣味に暮らそうよ、と

陶芸を始めたのに、ここに来て

あとひとつ何かものにする、という

のは逆戻りを意味する。

そして、なにかをものにするとかを

無くしてしまうのに心を砕いてきた

ので、この姿勢を崩すことはでき

ない。そうか、そうなのだ。

それでいいのだろう。今更なにか

もうひと仕事は必要ないのだ。

それこそ書く時に書いて、その他

もやれる時にやって、と目標とか

目的なしでやればいいことだ。

ただ現社会とはシステムを別にする

からその点でその関わり方には

それなりの工夫が要るだろう。

フリーなスタイルを続けつつ、社会

との整合性が取れる緩衝材という

人やものがいるのではないか。

それはともかく、もうあらまし

書くことは書き尽くした感がある

ので、一度休憩を取った方がいい

だろう。

無制限に、無時間で。


かく言っても、気まぐれが得意なの

で、どこでブログが復活するかは

わからない。隔日、二日おきという

ようにそこからまた持続するのか、

たまに一本書くという感じで、隔週

とか隔月に書くのかもわからない。


ネタはその気なれば尽きないものだ。

ネタの波長があるかどうか知らな

いが、僕との波長が合えば迷わず

書くだろう。

では、その時に。

(あさってくらいに書いても、僕なら

おかしくないので、それは知らない)

最近、疲れ方がおかしく、どう調子を

取ればいいのかもとためらうくらい、

なにがどう疲れたのかが、腑に落ち

ない。これが休憩の原因かもしれない。

とすると、これが解決したら、しれっ

と書いているようになるのかも、・・?
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AI 麻雀の攻略法 [麻雀]

ゲームの攻略法を書くのは初めてだ。

ゲームはスペースインベーダーの頃

からほぼしたことはなく、任天堂の

マリオがヒットしても無視していた。

というより関心そのものがなかった。

それは他の趣味に忙しかったという

ことではなく、結婚生活を維持する

のに、そのための会社生活・サラリー

マンで時間が取られていたからだ。

かと言って、それが暇でもゲーム

に手は出さなかっただろう。

無関心、それだけ。

しかし、麻雀は父が麻雀荘で雇われ

マスターをしていたのとその関係で

麻雀仲間が親戚も含めて、いたので、

30代まではよく誘われ、それで遊ん

でいた。もう40代以降は父も引退、

仲間も集まらなくなり、それで年

に一度くらいは麻雀をして暇つぶし

をしたいと思う時があり、それが

AI麻雀ゲームを買うきっかけ

だった。

それで時々ぼちぼちとひとりで

ゲームをしていたが、年に2,3度

だろうか、暇つぶしだった。それ

が盛んになったのはそれから20数

年後のコロナ流行の後半だった。

体の調子も悪く、暇を持て余したが、

旅行ができないので家で過ごすしか

ない、日本全国の退屈に僕も巻き込

まれたというわけだ。

麻雀ゲーム復活である。特に今年は

記録的真夏日の多い夏だったので、

気温との戦いは楽しいものではなく、

寝るも寝られず、クーラーとの調整

も戦いのようなもので、・・・・・

・・・とここらで近況解説はやめよう、

つまらない。


AI 麻雀ゲームのアマゾン通販のカス

タマー評価では相手がリーチ一発で

上がったりが多くて、とかの不満が

いくつか多くあった。そのとおりで、

なんで?というほぼ実際での麻雀

には見られない展開があって、これ

はあり得ないという理不尽さを感じ

ることが、ままある。

しかし、長い経験があるので、それ

ほど負けが込むこともなく、勝ち続

けるのでつまらなかった。

ところがゲームをする回数が増えた

せいだろう、5月の連休はかなり暇で

2週も体を休めなければならなかった。

その時に毎日ゲームをしたので、

かなりゲームの様相がその後変わり

始めた。

ともかく相手はAI の考え方ひとつ

で3人も相手がいるわけではない。

それを支配しているのはAI だ。

ゲーム開始から2荘目くらいから

急に相手の聴牌(テンパ)る速度

が急速になったのだ。

速い、早い。こちらの牌の面子が、

ふつう3面子で上がり一歩手前に

なるのだが、2面子もできない

段階で相手のリーチがかかり始める。

それが次の局(回)でも、その次

の局でも続くのだ。とても追いつ

かない。AI の支配速度が増すくら

い、それぞれの上がりレパートリー

が学習で内部記憶が高まるのだ。

準備の数が完璧になり、それが増え

て太刀打ちできない。オーバーヒー

ト状態でこれでは絶対に勝てない。

僕は初期のモードが初心者にも

上がれるモードだろうとわかるの

で、AIを冷やすためにコンピュー

タを再起動させた。これを2,3回

くり返すのが、AIが暴走した時

の対処法だ。

また、ゲームを起動させておいて

からいきなりAI麻雀の終了ボタン

を押して終了させ、というのを

くり返したり、その再起動との

組み合わせをくり返すと、AIは

おとなしくなる。

急にやさしい展開になり、欲しい

牌が嵌張(カンチャン)でも辺張

(ペンチャン)でも自模ってくる。

配牌も目を見張るほどよくなる。

これはAI のゲームを楽しませる

考え方の特徴で、初期モードに

戻るのだ。

なにしろこちらはベテランの経験

麻雀だから、その学習の意味が

最初はわからないし、知らない。

AI は僕の、相手がリーチをかけた

時にどう捨て牌するかを学習する。

すると、その読みを避けてリーチ

すれば、僕は計算通りに振り込ん

でくれるという寸法だ。これで

リーチは待ちが悪くてかけてこ

ないだろう、というプロ並みの

待ち方をする。

そうなると、相手は毎回リーチして

毎回僕に降らせる(負けさせる)と

いう芸当もできるようになる。

AI 学習、恐ろし、侮れず、となる。

そこでそういう自分だけ攻撃される

パターンになったら、すかさず

再起動をお勧めする次第、という

わけだ。

僕は経験から待ち筋や残りの牌から

計算して当たる確率の低い牌から

捨てる。ところが、このベテランが

いけないのだ。裏をかかれて当たる。

悔しいほどに当たる(負け)だろう。

さすがにそれに気づく。誰しもバカ

ではない。

そういう時は決してやらないことを

する。ドラという1翻、当たると追加

されて点数が高くなる牌をわざと出す

のだ。現実の人間同士の麻雀では

ぜったいにやらないことだ。すると、

当たらない、一度も。AIもバカな

もので一度読んだ僕の捨て牌の筋

を記憶しているので、ドラ牌を切る

など、それは予想外・想定外・計算

外なのだ。

この程度のプログラムなら、読めれ

ばこちらの勝ちになる。なので、

予想外の手を打って、勝ち続けた。

しかし、それも長く続けたので、

数か月立った今では少し中和され、

もっとAI の手が込み入ってきた

ようだ。高等な作戦で、一番最後

にひっくり返したり、逆に一番

最後に逆転勝ちさせてくれたりの、

読めない展開も披露している。



と、こんなところだが、この再起動

や強制終了の作戦にはリスク・欠点

がある。AI はコンピュータなので

脆弱なのだ。支配の乱れる、強制

終了などをくり返すと、記憶信号

にバグが発生するらしい。

局が流れて、全員の牌がオープン

され、相手の待ち牌が見えて驚く。

僕の捨て牌で当たっているのに、

見逃しているのだ。なぜ?

それだけでなく、僕がリーチをかけ

て自模っているのに上がりのロンの

ボタンが表示されずに上がれない、

ということがたまに起こる。

牌の記憶がバグで狂ったのだろう、

としか思えない。ゲームはそうなっ

ても大筋でできるがそのバグは

消えないだろうから、厳格にゲーム

の正しさを求めるなら、面白くない

だろう。

アンインストールして、また同じ

盤をインストールしても発生する

から、新しく買い直しが必要なのか、

新しい盤でも変わらないのか、わか

らない。自己出費で確かめられたい。

::ー以上。
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